吉田兼好。 吉田兼好の名言・格言30選

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吉田兼好

俗名は卜部兼好 うらべかねよし。 卜部氏は神道の家。 京都吉田に住むところから吉田氏をも称した。 出家後は音読して「けんこう」と号した。 父兼顕や兄兼雄も朝廷に出仕していたが,兼好も 20代は後二条天皇に仕えて左兵衛佐となり,その間豊富な有職故実の知識を得るとともに,歌を二条為世のもとで修練した。 30歳前後に出家して山城国小野庄に住んだらしい。 『兼好法師家集』 1346頃 や『 つれづれぐさ 』によると,その後関東にも下っており,また比叡山横川や京に住んで,南朝と北朝の対立する社会変動の激しい時代に傍観者として自己の真実に従って生きたらしいことが知られる。 は『枕草子』とともに文学の代表作。 としては二条派に属し,,,とともにと称された。 上記の家集のほか『続千載集』以下に 18首入集。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 鎌倉後期の隠者で歌人、随筆家。 卜部兼好 うらべのかねよし。 その名を音読して法名とした。 後世「吉田兼好」とよばれている。 吉田社を預る家の庶流に生まれた。 父は治部少輔 じぶしょうゆう 兼顕 かねあき 、兄弟に大僧正慈遍、民部大輔兼雄がいる。 『卜部氏系図』によると兼好は三男であるが、彼ら兄弟の年齢順ははっきりしない。 兼好は源(堀川)具守 とももり の諸大夫 しょだいぶ となり、後二条 ごにじょう 朝に仕えて六位蔵人 くろうど から左兵衛佐 さひょうえのすけ に至ったが、30歳前後に遁世 とんせい した。 厭世 えんせい 思想に動かされたためかと思われるが、その具体的事情は不明。 以後、修学院、横川 よかわ などに隠棲 いんせい して修行を重ね、40歳代になって都に復帰した。 住居は洛西 らくせい 双ヶ丘 ならびがおか の中央に位置する丘の西麓 せいろく の草庵 そうあん というが、確証を欠く。 文化人としての兼好は中世の文献に「和歌数奇者 すきもの (風流人)」(園太暦 えんたいりゃく )、「能書(達筆)、遁世者」(太平記)などとして出るが、活躍の中心は和歌にある。 師は当時の歌壇で重きをなした二条為世 ためよ で、42歳のときに彼から『古今集』に関する家説の授講を受けた。 邦良 くになが 親王の歌会をはじめ、各種の歌会、歌合 うたあわせ に参加、1344年(興国5・康永3)足利直義 あしかがただよし 勧進の『高野山 こうやさん 金剛三昧院 こんごうさんまいいん 奉納和歌』の作者ともなっている。 作品は『続千載集 しょくせんざいしゅう 』以下の7勅撰 ちょくせん 集に18首、私撰集『続現葉集』に3首とられ、自撰の『兼好法師集』(1343ころ成立か)がある。 「手枕 たまくら の野辺の草葉の霜枯に身はならはしの風の寒けさ」(『新続古今集』)が有名で、これにちなんで「手枕の兼好」などとよばれた。 没年はかつて1350年(正平5・観応1)とされていたが、翌々年8月の『後普光園院殿(二条良基 よしもと )御百首』に加点しているので、その年時以後の死ということになる。 没した場所は、伝承によると、伊賀(三重県)の国見山の麓 ふもと とも、木曽 きそ の湯舟沢ともいうが、不明。 残した業績として、和歌以外に随筆『徒然草 つれづれぐさ 』があり、『古今集』『源氏物語』など古典の書写・校合などもしている。 歌人兼好は、頓阿 とんあ 、慶運、浄弁とともに為世門下の代表的草庵歌人を称する「和歌四天王」の一人に数えられているが、「兼好は、この中にちと劣りたるやうに人々も存ぜしやらん」(『近来風躰抄 きんらいふうていしょう 』)と評されており、現代でも評価が高いとはいえない。 本領は、生前には知られなかったと思われる『徒然草』によってみるべきであろう。 この作品は、1330年(元徳2)11月から翌年10月までの間に比較的短期間で書かれたかとする説が有力であったが、近年疑問視され、青年時から晩年まで、断続的に書き継がれたかともいう。 したがって、ここには長年にわたる兼好の変化、屈折などが示されているかもしれないが、彼の才質、個性、教養の特徴はかなりうかがえる。 それによると兼好は、鋭い批評眼とユーモアをもち、万事に旺盛 おうせい な好奇心を向けて人間理解に冴 さ えをみせる人物であったようである。 発心遁世を説き、求道 ぐどう の生活を勧めるが、単なる遁世者にとどまらず、王朝期を追慕して古典的価値観に生きつつ、新時代の胎動を聞き落としていない。 交友関係も僧俗貴賤 きせん と幅広く多彩にわたり、高師直 こうのもろなお ら東国武将に奉仕することもあったらしい。 一事にとらわれない自由な生き方は、すこぶる特徴的で、今日の評論家ないしジャーナリストの源流にも位置づけられよう。

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吉田兼好ゆかりの地 兼好塚

吉田兼好

遺跡地は東西20m、南北30mの平坦な雑木林で、高さ1. 2mの遺跡碑が中央に建てられ、碑の前に土石がすこし高く積み上げられていて、これが兼好の塚と言われてます。 遺跡碑の奥に兼好塚があります 種生の国見山は、『徒然草』の作者として有名な 兼好法師が晩年を過ごした地として広く知られています。 幼少より和歌や文芸に秀でていた兼好は出家し、兼好法師と名乗って諸国を巡り歩きました。 晩年はかねて相愛であった小弁の局の父、橘成忠の招きでこの地に庵を開き、余生を送る傍ら、徒然草を執筆したといいます。 また、公園内には松尾芭蕉の高弟・服部土芳が1698年にこの地を訪れた時に詠んだ 《月添いて かなしさこほる 萩すすき》の句碑が建っています。 その奥には梅林がありますが、近年鹿の食害がひどいので柵が設置されています。 元禄期に京都の公卿篠田厚敬がこの地を訪れ、篠田厚敬稿「種生伝」、土佐光成筆「兼好画像」、頓阿・弘融・兼好の和歌色紙などを寄付しましたが、現在は常楽寺に残されています。 絹本著色兼好法師画像は三重県の文化財に、 兼好塚と 草嵩寺跡は市の史跡に指定されています。 また塚の近くにある「 種生のオオツクバネガシ」は伊賀市指定天然記念物で樹周囲3. 5m、樹高20mで枝張りは東西方向に23m、南北方向に21mになり樹齢は不明ですが樹がゴツゴツした質感で樹勢は旺盛です。 県下でもまれな樹木でその大きさからも大変貴重な樹木です。 もしかしたら、兼好法師もこの樹を眺めていたのかもしれませんね。

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吉田兼好の名言・格言30選

吉田兼好

吉田兼好『徒然草』の冒頭文〜つれづれなるままに〜 〈原文〉 つれづれなるままに、日暮らし、 硯 すずりにむかひて、心に うつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしう こそものぐるほしけれ。 〈現代語訳〉 孤独にあるのにまかせて、一日中、心に向かい合っては消える他愛のない事柄を、とりとめもなく書きつけてみると、妙に妖しくおかしな気分になってくる。 概要 菊池 容斎 ようさい「吉田兼好」 作者の 吉田兼好 よしだけんこうは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人、随筆家、歌人です。 生まれた年や没年ははっきりとは分かっていませんが、一二八三年頃に生まれ、一三五二年以後に亡くなったと考えられています。 中学の教科書などでは「吉田兼好」ではなく「兼好法師」と教わりますが、この兼好法師という呼び名は吉田兼好が途中で出家したことに由来し、本名は 卜部兼好 うらべかねよしと言います。 吉田兼好の書いた随筆『徒然草』は、清少納言の『枕草子』や鴨長明の『方丈記』と並んで 日本三大随筆の一つです。 作品の制作年は、一三三〇年から一三三一年にまとめられたという説や、長年書きためた文章を一三四九年頃にまとめたという説が有力です。 冒頭文の 「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」は古典のなかではとても有名な一節です。 特に末文の「あやしうこそ 物狂 ものぐるほしけれ」は、現代語訳でもばらつきがあるため、原文のままそのニュアンスを感じ取るのがよいかもしれません。 この部分をざっくりと現代語訳に書き換えれば、「思いのままに、日がな一日心に移りゆくなんでもないことを、なんとはなしに書きつけてみれば、なんとも妖しく不可思議なことになった」といった意味合いになるでしょう。 この「つれづれなるままに」「よしなしごとを」「書きつく」という組み合わせは、自身の卑下や謙遜を意味する表現として過去の日本文学にも存在する定型の一つのようです。 池澤夏樹さん編集の文学全集で『徒然草』の現代語訳を担当した思想家の内田樹さんは、吉田兼好の魅力について「現場主義的」と指摘します。 言葉で表現するに当たって難しいのは手触りと匂いと味わいであり、『徒然草』は五感のなかでも特に読者の「触覚」と「嗅覚」を刺激することのできる文体であると解説しています。 また、英訳に関しては、『徒然草』には複数の英語翻訳があり、ドナルド・キーン氏による冒頭文の英訳は以下のような表現になります。 What a strange, demented feeling it gives me when I realize I have spent whole days before this inkstone, with nothing better to do, jotting down at random whatever nonsensical thoughts have entered my head. 以上、吉田兼好『徒然草』の冒頭分でした。 参考 堀江敏幸、内田樹、他『作家と楽しむ古典』.

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