茂木 みなみ。 茂木忍

ハロプロ研修生

茂木 みなみ

(からの続きです。 先頭は。 ) 茂木:業(ごう)っていう概念についてもうちょっと聞きたいんですが……自分でコンできないもの・自分でどうすることもできないものを業と謂うってさっき仰ったんですが、 (中略) 茂木:業は科学主義における概念にはどうにもしようがないんですよ。 それがどうしてかというと、根本的なところで物的世界観じゃなくて事的世界観というか関係性みたいなものを含んだ意味で業ということがあるからだと思うんです。 そういうものって科学主義のなかには無いので。 要素還元主義ですから。 それで、業の教えというのは「自分や世界の現在の有り様の原因は、過去の自分の行為である」と考えるんです。 業(ごう)というのは元々はカルマ(行為)という意味です。 過去の行為が今の自分を成立させていると考えるんですね。 行為主義なんです。 僕はその概念を拡張して考えています。 人の関係というのは、人の行為ですわ。 これ[=コップ]がコップとしてここにあるのは、私がこれで水を飲むからであって、「私がこれで水を飲む」という行為がこれをコップにしているんですね。 それと同時に、私がいまこれで水を飲めば、私という存在は漠然と「水を飲む私」としてしか存在しないんです。 だから禅師は作法って言うんです。 (中略) 南:行いの有り様が人の有り様を決めるんです。 古い教説で「田を耕す人が百姓だ。 ものを売る人が商人だ」っていうんです。 つまり、行いが人を決める。 立派な行いをする人がなんだというんです。 つまり、或るものが「或るものである」のは、その人の過去の行いなり今の行いでそうなっているのだと考えるんです。 私は業の概念を、伝統的な教説よりも拡張して考えるんですね。 だから、「個人というものが何の前提とも条件とも関係なく居て、実体として存在するその個人がいろいろなことをする」というふうにはは見ないんです。 或るやり方で或る行為をする人の行為の有り様が、その人が誰であるかを決めるんです。 そういうふうに考えるんです。 そうするとこれは、その時の行為の有り様もあれば、過去の行為の有り様がその人の今を決めるというふうにも勿論言えると思う。 は「自分は業論者である。 行為論者である。 人は業であり人は行為である。 私はそのように人を見る」と言うんですね。 この考え方は、人を見るうえで非常に「なるほどな」と私は思いましたね。 業に関しては色々な考え方がある。 私は今そう思っているんですね。 の人生のどんな要素が、彼をしてあのような覚醒に向かわせたと南さんは思われますか? 南:私としては、最初にに衝撃を受けたのは、「ああ、この人[=]は僕と同じことを考えているのかな」と思ったときですね。 それは、自分が生きていることや生存していることには大した根拠がないっていう感じですな。 私が最初に衝撃を受けたのは、が若い頃にこう思ったというんですね……「愚かな凡夫は、老人を見て『ああ、嫌だな老いるのは』と思う。 自分もいつかは老いるのに。 だけど考えてみれば、自分[=出家前の]も老人を見て『ああ、嫌だな老いるのは』と思う。 自分もいつかは老いるのに。 これは愚かだ」。 「老いる人・死ぬ人・病の人を見ると、みんなそれを嫌がる。 自分もまたそうなるのに」と[が]思ったというんですね。 私はこれを読んだときに、は、人が誰でも切ないと思ったことをそのまんま見た人なんだと思ったですね。 その「嫌さ」と「嫌だと思う自分」と「その愚かさ」というものに衝撃を受けた人なんだと思うんです。 という人は、老いることが嫌だというよりも、老いることを嫌がる自分の無知というか自分のものの考え方が駄目だなと思ったと私は思うんです。 老いたり病気になったり死んでいくのが結局なぜ嫌かといえば、いつまでも今のままでありたいという気持ちがあるからでしょう。 では、いつまでも今のままである自分とは一体何なのか。 はおそらく、それ[=老人・死人・病人]を見たときに、いつまでもそのまんまありつづける自分というのは、でかい錯覚だと思ったに違いない。 キリストは神というものを見つけて自分の根拠にもってきたでしょう。 しかしは、「根拠は無い」と言ってそのことを引き受けた人なんです。 だから、をもっていれば、世の中の様々な矛盾を「だ」と言って納得させるでしょう。 しかしの場合だったら、矛盾を完全に解消するような一発回答が出せないんですよ。 それで、これは無限なんですわ。 因果関係というのは無限でしょ? 答えが出ない。 答えが出ないけれども問い続ける。 そして或る段階で「あきらめる」。 断念する。 そしてその時点で教えとして分かった最も真っ当な道に向かって駆けていくというやり方しか、たぶん残らないと思うんですね。 が言っていることはそういうことであって、存在の根拠が欠けているならば、それをでっち上げたりしないですよ。 欠けているなら欠けているで、ではどのように生きていくかを考えたほうがマシだ、と。 自分のなかには根拠がない。 他人とのつながりのなかに根拠がある。 というふうに思います。 茂木:そうすると、「基本的に救いは無いんだ、あきらめるしかない」といったときに、解脱という概念はどういう位置づけになるんですか? 南:私の場合、解脱というのは「自分に対する断念」だと思うんです。 それは、欲望とは何かという問題とも結びつく。 人の欲望というのは……「喉が渇いた」、「腹が減った」などということは大したことじゃないんですよ。 食べれば治るんですから。 人間の最大の苦しみは「認められたい」っていうことです。 なぜか? 根拠無しで生まれてきたからですよ。 そうでしょう? お母さんに辛うじて抱き取ってもらったから何とかなったんです。 だから、誰かに認められないと、自分であり得ないんです。 それを忘れて、自分には根拠があると思うならば、例えば所有物をかき集めて羨ましがらせることで何とかしようとしたり、地位を獲得することで他人の視線を集めようとするわけです。 しかしそんなものはでっち上げですから、無くなったときには……。 官僚になった私の親戚が言ってましたよ、「辞めた途端にお中元も何も来なくなった」。 そんなものですわ。 人に認められたいっていう欲望は、ただの欲望ではなくて我々の根底にあるんです。 それは、我々が「他人との関係」だから。 関係はモノではないんですから。 これが薄くなってしまうと、自分の価値なんか誰も信じない。 あの「監禁王子」なんてその例ですね。 まともな関係を誰とも作っていないから、自分の価値なんかまるっきり信じていないでしょう。 だから「王子、王子」と強弁しなきゃならないんです。 金を持たなきゃならないんです。 それで相手を奴隷のように扱う。 彼は認めてほしいんです。 無力な自分を。 彼は自分が無力であるということをまともに見ないし、自分が無力であるということで自分を断念する力がない。 そうなれば、他人を奴隷のように扱うことによってしか自分の存在価値が分からないんでしょう。 (中略) 南:彼は自分の無力は感じている。 しかし見ていない。 これじゃあ絶対に解脱できないでしょうな。 解脱というのは厳しい教えで、「人間というのはそれ自体、駄目なんだ」というのがないといけないんです。 「人間であることそれ自体は、最終的には駄目だ」という教えなんです。 口当たりのいい話ではないんですよ。 はたいてい口当たりのいい話にしてしまいますが、そうではないんです。 はではない。 と思います。 しかし、救いがあるとすればこの覚悟以外にはないんです。 茂木:だんだん分かってきたんだけど、南さんの定義による「解脱」というのは分かりました。 僕はすごく納得のいくものかもしれない。 そこについて教えてください。 南:良い質問ですな。 じゃあ、具体的に。 まず、の解脱といったら、端的には輪廻から解脱するということですな。 インドには、生まれかわり死にかわりという考え方があるんですよ。 「行いによって地獄に生まれたり天国に生まれたり。 生まれかわり死にかわりを繰り返す」と。 昔のインドの教えでは、天国に行くことが良いことで、地獄に堕ちることは駄目だったんです。 天国に行っても駄目なんです。 普通は天国で「あがり」なんです。 しかしそこでも駄目なんです。 つまりこれは、我々の想像を超えているんですわ。 輪廻から解脱しろというんですよ。 こうなると、もう普通の人間の思いとか価値とは違うんですわ。 だから私がさっき言った「自己を断念する」という話は、からまんざら外れた教えではない。 天国に行っても駄目だというんですから。 それを超えるとなれば、もう我々としては分からない。 「天国に行きたいな」っていうのは気持ちとして分かるでしょう? 普通の人間なら。 これ[=天国に行くこと]でも駄目だと言われたらもう想像つかないです。 そうするとこれはどうも、人が普通に思うような範疇を超えてしまうんです。 「天国に行っても駄目」な世界というのは何なのかということになりますからね。 はそう言っています……「輪廻を超える」と。 これはお経を読んでもらえば分かる。 在家の人というか別の人には、まあ「天に生まれろ」みたいなことを言いますが、それは最終的な話ではない。 寂滅するということです。 彼は「生存を完全に消滅させる」という言い方をしている。 「生存の消滅」って言っていますからね。 きつい言葉だなと思ったですけどね。 「あらゆるかたちでの生存を消滅させる」というんですよ。 それが涅槃、あるいは解脱だという言い方をしています。 額面どおりに聞くと厳しすぎてよく分からない。 一つは金。 もう一つは異性。 もう一つは地位・名誉。 およそ揉め事はこの三つです。 (中略) 南:自分が楽をしていると、他人の苦しみに軽蔑を感じるようになるんですな。 「坊主になっちまえばいいじゃないか。 そんなに苦しいんだったらに来りゃいいじゃないか」と、だんだん傲慢になってくる(笑)。 危険なのはね……修行は人を傲慢にするときがあるんですよ。 私は出家は絶対大事だと思います。 これは何とかして復興したいと思う……自分でね。 やりようによってですよ。 (中略) 南:[出家は]大事だと思うんですよ。 しかし非常に危険なのは、出家というのは楽なんですよ。 楽になってくると傲慢になってくるんですよ。 これが怖い。 やはり、或る矛盾のなかを生きるというのが人間の有り様であって、それを忘れてしまうとも成立しないんですね。 つまり、「苦しい」ということを具体的に感じる場がどうしても要ると思うんですよ。 それで、苦しさを見るとか考えるということは、もっと苦しいことなんです。 者の立場としては、それをあえて引き受けるということが必要だし、やっぱりそこに大きい意味があるだろうと思いますけれどね。 と、まあ独りよがりにそう思っているんです。 (へ続く) logues.

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茂木 みなみ

略歴 [ ] 2011年• に合格。 12月8日、で開催された「AKB48 6周年記念公演」でお披露目される。 2013年• 8月24日の『真夏のドームツアー〜まだまだやらなきゃいけないことがある〜』の公演3日目においてチーム4への昇格が発表される。 2015年• 3月26日、さいたまスーパーアリーナで行われた『AKB48春の単独コンサート〜ジキソー未だ修行中!』において、チームKへの異動が発表される。 5月に『2015専属! AKB48グループ グラビアモデルオーディション』で第1位を獲得した。 5月19日から6月5日にかけて投票が実施された『』では57位で初ランクインし、フューチャーガールズとなる。 2016年• 2月6日に公開された短編オムニバス映画「9つの窓」の一編『赤い糸』で映画初主演を務める。 5月31日から6月18日にかけて投票が実施された『』で47位となり、ネクストガールズとなる。 9月16日発売の9月号よりグラビア記事「茂木忍のみんなのハートをもっぎもぎ」の不定期連載がスタート。 2017年• 5月30日から6月16日にかけて投票が実施された『』で74位となり、アップカミングガールズとなる。 2018年• 5月29日から6月15日にかけて投票が実施された『』では100位までにランクインできなかったが、8月13日に行われた『AKB48グループ感謝祭〜ランク外コンサート〜』において101位であったことが明らかになった。 2019年• 3月28日から31日まで上演された舞台「カーテンコール〜この想い、届け! 〜」で初主演を務める。 2020年• 1月21日に、、とともに上に「ゆうなぁもぎおんチャンネル」を開設。 AKB48での参加楽曲 [ ] シングル選抜楽曲 [ ]• 「」に収録• あの日の風鈴 - 「ウェイティングガールズ」名義• 「」に収録• 大人への道 - 「研究生」名義• 「」に収録• 私たちのReason• 「」に収録• 強い花 - 「研究生」名義• 「」に収録• LOVE修行 - 「研究生」名義• 「」に収録• 清純フィロソフィー - 「Team 4」名義• 「」に収録• 君の嘘を知っていた - 「Beauty Giraffes」名義• 「」に収録• ハートの脱出ゲーム - 「Team 4」名義• 「」に収録• 目を開けたままのファーストキス - 「Team 4」名義• 「」に収録• 君にウェディングドレスを… - 「フューチャーガールズ」名義• 「」に収録• マドンナの選択 - 「れなっち総選挙選抜」名義• お姉さんの独り言 - 「Team K」名義• 「」に収録• 哀愁のトランペッター - 「Team K」名義• 「」に収録• 進化してねえじゃん - 「ネクストガールズ」名義• 「」に収録• ハッピーエンド - 「レナッチーズ」名義• 「」に収録• 点滅フェロモン• 「」に収録• 月の仮面 - 「アップカミングガールズ」名義• 「」に収録• 終電の夜 - 「Team K」名義• 「」に収録• 耳を塞げ! - 「チームナイスファイト」名義• 「」に収録• また会える日まで アルバム選抜楽曲 [ ] 『』に収録• さくらんぼと孤独 - 「研究生」名義• 青空よ 寂しくないか? チーム坂 - 「Team 4」名義 『』に収録• 涙は後回し -「峯岸Team 4」名義 『』に収録• 愛の使者 - 「Team K」名義 その他の参加楽曲 [ ]• 劇場公演ユニット曲 [ ] 出演 [ ] AKB48メンバーとしての出演(コンサート・ライブイベントを除く)については「」を参照 舞台 [ ]• カーテンコール〜この想い、届け! 〜(新宿村LIVE、2019年3月28日 - 31日) - 主演 結奈 役• お茶っぴき(上野ストアハウス、2019年9月18日 - 24日) - 杏 役 映画 [ ]• カーテンコール(2019年11月16日、ミカタ・エンタテインメント) - 主演 結奈 役 イベント [ ]• きものサローネin日本橋(2016年10月28日、) - イベントゲスト 書籍 [ ] カレンダー [ ]• 卓上 茂木忍 2014年カレンダー(2013年12月6日、ハゴロモ) 脚注 [ ]• 講談社 MOOK『AKB48総選挙公式ガイドブック2018』116頁• nikkansports. com 日刊スポーツ新聞社. 2011年12月9日. AKB48オフィシャルブログ 2013年8月24日. 2013年8月24日閲覧。 ORICON STYLE oricon ME. 2015年3月26日. 2015年4月6日閲覧。 - Deview 2016年1月27日• オリコンニュース. 2015年6月6日. 2019年12月21日閲覧。 AKB48オフィシャルブログ 2015年6月6日. 2015年6月6日閲覧。 com. 2019年12月5日閲覧。 オリコンニュース. 2016年6月18日. 2019年12月21日閲覧。 オリコンニュース. 2017年6月17日. 2019年12月21日閲覧。 オリコンニュース. 2018年8月13日. 2019年12月21日閲覧。 2019年3月28日. 2019年12月5日閲覧。 ENCOUNT. 2020年1月25日. 2020年2月1日閲覧。 AKB48オフィシャルブログ 2019年4月2日. 2019年12月5日閲覧。 映画ナタリー ナターシャ. 2019年11月12日. 2019年12月5日閲覧。 きものと宝飾社 2016年10月29日. 2019年12月6日閲覧。 外部リンク [ ]• (2012年6月1日 - ) - AKB48 アーカイブブログ• - チャンネル(2020年1月21日 - ).

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茂木さんの多い名前一覧 1位から100位

茂木 みなみ

(からの続きです。 先頭は。 ) 茂木:今日、南さんの話をうかがっていて非常に面白くて、私が考えていることとの接点もすごくあるし、どうせまたどこかでお会いすると思うし。 ですから、あとは南さんを皆さんに解放しますので、この際、悩みとか質問とかありましたら、この高僧の方にですね……。 質問者1:南先生はのお坊さんですよね。 座禅を組まれたり修行をされる過程のなかで、心境とか心理状況に関して「ここがベストな心境・心理状況だ」ということがあるのではなかろうかと思うのですが、それは体感的にどんな印象ですか? 南:ある意味で、「悟り」みたいなことで間違えるのは、ある心身の経験を絶対化して「これぞ真理だ」みたいな言い方をすると間違えるんですよ。 ただし、日常の有り様を一挙に相対化する視点というものはあるんです。 それを座禅によって作り出すことは可能なんです。 というのは、人間の意識状態というのは身体の有り様と密接に関係しているんですわ。 身体に或る操作を加えると、人間の意識のレベルが全然切り替わっちゃうんですよ。 これは、或る身体操作を加えるとぶっ壊れてしまう。 オウムが使ったのはそこなんですわ。 オウムが使ったまずいことは、或る経験を絶対化して「これぞ真理だ」みたいに植え込むことなんです。 私に言わせればそれは、或る操作をした結果にすぎない。 堅固だと思っている「私」というものは、実は非常に脆い構造しかもっていないということが一発で分かるときはある。 南:良い気持ちですよ(笑)。 全体の感覚が点滅しているみたいな、バイブレーションがかかっているような状態になりますね。 それと、体の内と外というイメージが崩れちゃうんです。 つまり、脚が痛いなと思っても、脚が「その辺」にあるような気がするんです。 それから、何か音が聞こえてきても、頭の中で響いているのか外側で響いているのか全然分からない。 感心するでしょう? 感心しちゃ駄目なんですよ。 それは悟りでもなんでもない。 「そうなる」っていうだけです。 そういうことはあるんです。 だから、自意識というのは一定の条件下で・一定のフレームでしか存在しない。 さっきの「縁起」ですわ。 それに対して或る操作をすれば、もろくも崩れてしまう。 巧妙な人間は、この操作を戦略的に使うわけです。 つまり、「或る体験がある」ということと、或る体験の意味を語ることは別なんです。 ですから、体験がどうであるかということを聞いても駄目なんです。 「その人間はこの話をどんな意図でしているのか」を聞かないと駄目なんです。 だから私がここで何を言ったとしても、「ああそうですか」って聞いていればいい。 もし私が「これぞ本来の自己だから、それを教えてあげるから、あなた五百万円持ってきなさい」ということになったら、おかしいなと思わなきゃいけないです。 質問者1:どうもありがとうございました。 (中略) 南:私が思うのは、「AはBである」と言ったときには、この格好には「裏」が隠れているんですわ。 「AはBである『と思う。 私は』」という、「と思う。 私は」の部分が、普通の理論では隠れているんです。 非常に権威のある科学者が「AはBである」と言うと、みんな「そうかな」と思う。 しかし、この話には括弧が付いている。 「と思う。 私は」って。 そうすると、この「と思う」というところの根拠は何か? 次の「私は」というのは誰なのか? それを我々は問わざるを得ない。 これがですわ。 「霊はある/霊はない」。 この話には「と思う。 私は」というのが隠れている。 が見ようとしているのはここなんです。 「Aはある/ない」の部分は、「と思う。 私は」によって、どうとでもとれるんです……どんな理論でもできる。 問題はこっち[=『と思う。 私は』]なんです。 なぜその人は「と思う」のか? その「思う私」とは誰なのか? が見ようとしているのはそっちだと私は思うんですね。 (中略) 質問者2:に「大品般若は春の水、罪障氷の解けぬれば、万法空寂の波立ちて、真如の岸にぞ寄せかくる」と出ているんですね。 どういうふうに訳したらいいんでしょうか? 南:私はは分からないですが、その「罪障」とは何かと思うでしょう? 「罪」は「悪」とは違うんですわ。 これは非常に大きい問題なんです。 私もそれをずっと考えているんですけどね……。 「罪」と「悪」は別のことなんですよ。 「してはいけないこと」ということの明確な自覚がないかぎり、「罪」ということは起こらない。 もっと言うとですね、罪障という言葉が重要なのは、自分の善き生というものがいったい何であるかということを考えることによって「善きこと」というものが明瞭に意識のなかにのぼらないかぎりは「罪」というものを自覚できないんですよ。 だから、歌としてはよく分かるんですよ。 また、日本のというのはどちらかというと、強い自覚を嫌うところがあるんですな……「最終的には、人間とその社会というのは結構だ、ありのままでいいんだ」みたいな言い方で流しやすいんです。 質問者2:真如とは何ですか? 南:ではタターガタと言いますが、というのと同じような意味です。 教学的にはね。 はじゃないですから、「これが真理だ」ということを断定しないんです。 「のようなもの」という言い方をします。 しかしながら、そういうとき[=]で使うときには、「真如の岸」というのは「的な真理」とか或いは「涅槃」とか或いは「解脱」という意味で使っています。 だからそのとおりに理解して頂ければいいと思う。 つまり、或る人間にとって或る現れ方をするから意味があるんですよ。 普遍的な真理なんてどうでもいいんですよ。 或る縁があってその人が出会って、その人が救われた何か。 そう考えるべきだと僕は思うんです。 それが罪障という問題と結びついていると僕は思うんです。 その人がどう「罪」を自覚しているのか。 何が障りだと思っているのか。 それをはっきり見た人にとってどのような真理が現れるかが問題であって、統一普遍的な絶対真理などというものは役に立たんと思いますね。 (中略) 南:どっちの信念体系というか理論体系を選ぶかということはそれぞれのご縁でございましょうから、そちらが一元論でなさって、私が「」であっても一向に困らない。 世の中には、を要らない人もいる。 私は「が絶対の真理で、みんながやらなきゃいけない」とは思わないです。 だいたい、が「私は医師だ。 医師だから薬は出すけど、飲むか飲まないかはあなたの勝手だ」って言うんですからね。 だから、要らない人には要らない。 この世が何にも苦しくなくて楽しく死んでいく人が居るんだったら、その人はとは全然関係ない。 それで、科学で全てすっきり説明がついて、「これで何の不満もない」というんだったら、それはたいへん結構なことですよ。 ただ世の中には、のようなものの考え方や苦しさの自覚に共感する人間が居て、その人間にとってはが有効なときがあるというだけですわ。 「薬は出すが飲むか飲まないかはあなたの勝手だ」、「自分は船頭だから、この船に乗るか乗らないかはあなたが決めて」という冷たい言い方ですが、私は忠実にそう思っているんですよ。 ですから、が科学に含まれても科学がに含まれても、幸せになっていければそれで良いわけでございまして、もし科学で解脱できれば私が教えて頂きたいぐらいの話でございましてね……。 私は残念ながら、「脳がすべてだ」と言われても自分で脳を作ったわけではないからいまひとつ分からない。 「物質はだ」といったって、「なぜそうなんだ」と問われたら説明できないでしょう。 いつまでなんだ? のあとにニューが出てきても、「なぜそうなんだ」と問われたら、もうどうしようもないでしょう。 そうすると、科学の説明の「」あたりで納得する人も居れば、その先まで知りたいという人も居るだろうし、あるいは「諸行は無常だ」と言われるとストンと納得する人も居るだろう。 結局は、その人間が何を問いとして自分に向けているかで決まることであって……だからは答えよりも問いのほうが大事だと思うんですね。 「何を自分で問うているのか」ということが始まりにあると思うんですよ。 ですから、主観的体験の実在上の地位というものが決まらないかぎり、いわゆる「だ」とか「生化学的な反応だ」とかそんなものでカタがつくような甘い世の中じゃないっていうことですよ。 科学だけで話が済むんだったら、そんな楽な話はないんであって……。 「どう生きるか」という問題ではなくて純粋に知的な意味で科学では話がつかないから困っているんですよね。 (中略) (へ続く) logues.

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