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前途厳しい連敗、もがく中田全日本 女子バレーW杯:時事ドットコム

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現全日本代表女子の監督である中田監督は2011年にコーチとして、2012年に監督就任、そして総監督として久光で女子チームで初めてとなる3冠を始め素晴らしい成績を残しました。 その時代に岩坂名奈選手も久光に所属しています。 キャプテンではありませんが中田監督から信頼が厚かったとのことです。 その後、代表選出され彼女がキャプテンに任命されました。 理由としては選手としての実力はもちろんですが、監督と良いコミュニューケーションが取れるのでしょうね。 そしてその内容を他の選手に確実に伝達できる唯一の選手だと考えます。 現在はMBとして控えが多いですが、これは荒木選手の存在です。 やはり経験豊富な選手がコートにいることによって他の選手に安心感を与えますので。 特にスタメンで起用する場合は。 引退前の木村沙織選手(キャプテン)と荒木選手との関係性と同じです。

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バレーボール全日本女子

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来歴 幼少期 生まれ。 その後父親の仕事の都合で大阪、東京と転々とした後、の多西小に通う。 バレーボールをしていた両親(特に母親)の影響を受け、小学校2年生の時に秋川JVCに入団し、バレーボールを始める。 秋川JVCは守備練習中心のチームで、この頃レシーブ練習を数多くこなした事が、現在のレシーブ力に生かされていると本人は言っている。 チームでは主にレフトを務め、小学校6年生時には東京新聞杯で優勝している。 小学校4年生の頃に「週末に思う存分友達と遊んでみたい」との理由で2週間ほどチームを辞めているが、バレーボールから離れたのはこの期間だけである。 中学時代 中学校は名門、に進学。 ここで、、など、以後チームメイトとなる選手達と出会う。 中学校入学時には163cmとさほど高くはなかった身長は、中学3年間で約15cmも伸びた。 以後ポジションはセンターとライトを務める事が多くなり、主力選手として全日本中学校バレーボール選手権大会優勝、(アクエリアスカップ)でJOC杯受賞。 Bクイックは得意技と言えるほどに上達し、プレーに幅が出た。 中学校2年生の頃、バレー人生で初の骨折(左手中指の付け根)。 全治2週間と軽度だったため大事には至らなかった。 高校時代 、バレーの名門として知られる成徳学園高校(現・)に進学。 高校2年生になるとライトで主力選手となり、で優勝を収め、成徳の2連覇に貢献した。 同年8月開催のは3位に終わり連覇を逃したが、インターハイ閉幕と同時にから強化合宿に招集され、同年9月のに出場。 当初はセッター登録であった。 そして11月開催のに故障のの代役として出場した。 12月の全国私学大会で下北沢成徳高は大会初の3連覇を達成。 では大会3連覇を目指し決勝に進出したが、第1セット、を決めた直後に味方選手であると接触し転倒、右足首を捻挫。 を施したのちに足を引きずりながらプレーを続行したが、結局に1-3で敗戦し準優勝であった。 最終予選で再度全日本代表に招集され、初戦の戦で代表初スタメン出場を果たし、14得点をマークすると共に持ち前の性格とあどけない笑顔で 「スーパー女子高生」の呼び名でブレイクした。 全日本女子チーム2大会ぶりのオリンピック出場に大きく貢献した。 6月にインターハイ関東予選に出場したが予選敗退。 全日本合宿に招集されイタリア4ヵ国対抗戦などに出場。 7月からは1ヵ月にわたるワールドグランプリに出場するも、日本は予選落ち。 目立った活躍は出来なかった。 はからの開幕であったが、腰の状態は最悪で立つこともままならない状態だった(アテネで他競技のトレーナーからと診断された)。 そのため出場機会がほとんど無いまま、初めてのオリンピックを終えた。 しかし、決勝戦の対戦を会場で観戦し最高峰のプレーを目の当たりにした事で、初めてメダルへの執着心が生まれる。 オリンピック終了後、で開催されたアジアジュニア選手権に出場。 12月、高校最後の大会となる全国私学大会の頃には腰痛がさらに悪化していた。 決勝戦の第2セット終盤に出場するが、得点を決めることなく自身の高校バレー生活に幕を閉じた。 東レ時代 高校卒業後は東レに入社した。 7月開催の女子ジュニア世界選手権U-20では、全試合レギュラー出場し得点王に輝き、復活を遂げる。 からのアジア選手権では、当時へ派遣移籍していた・の代役を担ってエースとして活躍した。 自身初のリーグとなった第12回Vリーグでは、開幕戦ライトでスタメン出場を果たす。 この試合でのアタック決定率はチームトップの52. その後もレフト・ライトでスタメン出場を続け、リーグ前半のチーム快進撃の原動力となった。 リーグ後半に入ると、アタック決定率は比較的安定していたが、サーブを集中して狙われ、攻撃パターンを封じられた。 また腰痛の影響からかキャッチの不安定さもみられたが、アタック決定率リーグ6位、サーブ効果率リーグ9位という成績で新人賞を受賞した。 出場、では日本の優勝に大きく貢献し、ベストサーバー賞を獲得。 同年に出場した。 、で優勝し初代チャンピオンとなった。 、 2007-08において東レのリーグ初優勝に貢献し、ベスト6賞を獲得した。 同年8月、に出場した。 、 2008-09プレミアリーグにおいて女子史上初の二連覇に貢献し、前年に引き続きベスト6賞を獲得した(日本人ベストスコアラー)。 同年5月、第58回で優勝し、自身初となる黒鷲賞(最高殊勲選手)とベスト6賞を獲得した。 妹・も2010年より同チームに所属している。 、 2009-10プレミアリーグにおいて女子史上初の三連覇に貢献し、自身初のMVPに輝くとともに、3年連続ベスト6賞を獲得した。 また、の持つ最多得点部門の記録を塗り替え、レギュラーラウンドで合計566点(アタック496点、ブロック43点、サーブ27点)を記録し、Vリーグ日本記録賞(最多得点部門)を受賞した。 同年5月、第59回で優勝し、2年連続となる黒鷲賞とベスト6賞を獲得した。 決勝のJT戦では、3セット目に一人で14点を稼ぐ大活躍を見せた。 ワールドグランプリ2010では、故障明けのが不参加だったため、臨時で副キャプテンを務めた。 攻守の中心となりチームを引っ張り、予選ラウンドでは165得点、決勝ラウンドでは105得点を挙げ、予選・決勝ともにベストスコアラーに輝いた。 チームはイタリアに2度勝利したり、9年ぶりにブラジルに勝利するなど大健闘したが、最終順位は5位に終わった。 同年11月開催のでは、32年ぶりの銅メダル獲得に大きく貢献した。 エースとしてほぼフル出場し、ベストスコアラーランキングではトルコのに次ぐ第2位で、アタック本数、サーブ受数、サーブ本数においては全選手の中で一番の数字であった。 木村本人がつぶやくことはなかったが、制作時の裏話や彼女の近況などを編集者を通して伺い知る事が出来た。 また、その中で木村本人への質問を募り、バレーボール専門誌誌上で回答を行うという企画が行われた。 では早いトスに挑戦した(ワールドカップ時は本来のトスに戻した)影響や、直前の中心メンバーの離脱などもあり、チームも彼女自身も序盤は調子が上がらなかった。 若手の台頭などがあり徐々にチームが固まっていき、最終的には当時、世界ランキング1位のブラジルや2位のアメリカをストレートで破るなど、怒涛の巻き返しをみせ、5連勝で大会を締めくくった。 しかし惜しくも最終順位は4位となり、上位3チームまでに与えられるロンドン五輪出場権獲得にはあと一歩届かなかった。 彼女自身も序盤こそ苦しんだものの、その後は安定した活躍をみせ、最終的にはベストスコアラー第4位、ベストアタッカー第5位、ベストブロッカー第13位、ベストサーバー第11位、ベストレシーバー第3位、ベストディガー第10位という攻守にバランスの取れた個人成績を残した。 特にベストレシーバーとベストディガー部門においては守備専門選手のリベロを除くと共に最上位であり、彼女の守備能力の高さを証明する結果となった。 2012年、ロンドン五輪・での木村 、 2011-12プレミアリーグにおいて、東レアローズ4度目の優勝に貢献した。 決勝戦では両チーム最多の20得点をあげ、5年連続のベスト6賞を受賞した。 シーズン途中の2レグ終盤、チームでの練習中に足首を捻挫し、全治3週間という診断を受けた。 2012年2月11日、12日に行われた岐阜大会ではチームに帯同はせず、翌週の山形大会からベンチ復帰した(試合には出場しなかった)。 実質的な復帰戦であった2月25日の岡山シーガルズ戦では絶不調でアタックで2得点しかあげる事が出来ず、2セット目の途中で交代を余儀なくされた。 チームメイトのセッターによると、翌日の朝練習で木村は非常にピリピリとした雰囲気で一言も口を利かなかったという。 こんなことは初めてで、はその日の試合(2月26日久光製薬戦)で出来るだけ彼女にトスを上げることを心がけたという。 故障開けにもかかわらず彼女は試合にフルセットフル出場し、チーム最多の24得点をあげ、チームは勝利を収めた。 2012年6月、の代表メンバーに選出された。 準々決勝の対中国戦ではと共にチーム最多の33得点を叩き出す活躍で、これまでの五輪で1セットも取る事が出来なかった相手にフルセットの激戦の末勝利を収めた。 で韓国をストレートで破り、日本女子バレーボール代表28年ぶりの銅メダル獲得の立役者となった。 中心選手として全試合にフル出場し、北京オリンピックに引き続き日本人ベストスコアラーとなった。 全体でもベストスコアラー部門3位にランクインし、ベストスパイカー12位、ベストレシーバー12位、ベストディガー部門で8位だった。 ワクフバンク・テュルクテレコムへの移籍 2012年7月10日、ロンドンオリンピック終了後の2012年 - 2013年シーズンよりのワクフバンク・テュルクテレコムへ移籍することが発表された。 年俸は1億円。 同年8月16日、とマネジメント契約を締結。 9月7日に成田空港からトルコへ向け出発した。 空港では記者会見を行い「いろんな面で成長できるように頑張りたい」と抱負を述べた。 同日、トルコに行っている期間だけ更新するという『木村沙織オフィシャルブログ「木村沙織のトルコ奮闘記」』をにて開始。 10日にはイスタンブールでの入団会見に出席し、新チームでの抱負を述べた。 また、本人の希望で決まったという背番号「18 」のユニフォーム姿も初披露した。 9月末を持って東レ株式会社を退社(東レアローズを退団)した。 2013年1月31日、寝具メーカーであるとスポンサー契約を締結したことが発表された。 3月12日にはとオフィシャル・エアライン・パートナー契約を締結したことが発表された。 同年3月、において優勝を果たした。 予選ラウンドではスタメンで起用されることが多かったが、主にスパイク面で苦労し、PLAYOFF12以降はピンチサーバーからの守備固めで起用される事が多くなった。 決勝の戦では3セット全てで途中出場し、サーブや後衛でのサーブレシーブで貢献した。 決勝戦後には「絶対勝ちたいと思って臨んだので、優勝して本当によかった。 すごくラッキーだなと思います。 サーブで攻めて流れをいい方に変えるなど、(チームの)いいリズムをキープするのが一番の役割だと思っていた。 」と語った。 指揮官である監督からは「ほぼ完璧」と賞賛された。 準決勝ではの移籍先であると対戦し、史上初となるFINAL4での日本人対決が実現した。 その準決勝と決勝戦の模様はにて生中継された。 ワクフバンクはトルコカップ、トルコリーグも制覇し、公式戦無傷の47連勝で3冠を達成し、最高の形でこのシーズンを終えた。 同年5月13日、監督に指名され、2013年度の全日本キャプテンに就任 (バレー人生初のキャプテン)。 そして、「元のキャプテンシーを受け継ぎたい」という気持ちから、竹下が付けていた背番号「3」を希望したという。 同年6月3日、(同じトルコリーグのスポンサー親会社)は、ワクフバンクからガラタサライへの移籍に合意したことを発表。 日本球界に復帰 2016年、リオデジャネイロ五輪での木村 2014年6月5日、東レ・アローズへの復帰が決定した。 東レでは初のプロ契約で契約期間は2年間。 2015年8月の直前、ロンドン五輪後から伸ばして試合ではで一つに束ねていた髪を、30cm切って大会に臨んだ。 2016年5月の。 前日の第1セットで右手小指を負傷した中 、第2セットから出場した4日目の戦(逆転勝利)では、劣勢の最終セットでコート内で仲間を集め、6人が手を繋ぎ輪になった。 木村はその後も出場を続け、6日目に日本は五輪切符を獲得。 自身も出場内定し、女子インドアバレー史上日本初の、五輪4大会連続出場となる。 2016年12月31日に元インドアバレー・ビーチバレー選手のと結婚したことを発表した。 現役引退 2017年3月22日、記者会見を開き正式に現役引退を表明した。 一番印象に残った試合は、準々決勝の対戦。 木村は「カフェを持ちたい、子供の頃からの夢だった」と語った。 演じた女優• - 、系列で、親友だったの著書を原作としたドラマ「」が放送された (木村を相武が、横山をが演じた)。 プレッシャーから寝つきが悪くなったり食事が喉を通らない事もあり、体重は昨年から5kg減った。 単独から複数のものまで含め、専門誌「」の表紙を14ヶ月連続で飾った。 2011年09月号から2012年10月号までで、1人の選手が1年以上に渡り表紙に登場し続けたのは極めて異例なことである。 - 2003-2016年• 全日本代表としての主な国際大会出場歴• - 2004年、2008年、2012年、2016年• - 2006、2010年、2014年• - 2003年、2007年、2011年、2015年 所属チーム• 多西小(秋川JVC)• 成徳学園中• (2005 - 2012年)• (2012 - 2013年)• (2013-2014年)• 東レ・アローズ(2014年-) 受賞歴• - 第13回世界ジュニア女子(U-20)選手権大会 ベストスコアラー賞• - 第12回 新人賞• - ベストサーバー賞• 2009年 - MIP• 2009年 - 第58回 黒鷲賞(最高殊勲選手)、ベスト6• 2009年 - ベストサーバー賞• 2010年 - MVP• 2010年 - 第59回 黒鷲賞(最高殊勲選手)、ベスト6• 2010年 - トリノ国際大会 MVP、ベストサーバー賞• 2010年 - ワールドグランプリ2010 ベストスコアラー• 2011年 - 第60回黒鷲旗全日本バレーボール選手権大会 ベスト6• 2016年 - 第66回 競技団体別最優秀賞 個人成績 レギュラーラウンドにおける個人成績は下記の通り。 19 401 26 6. 23 446 21 4. 37 279 16 6. 38 380 22 5. 40 390 27 6. 29 408 26 6. 25 223 13 5. 38 331 10 3. 31 391 27 6. 広告出演• 京阪マナーポスター 「ファインプレー宣言」 2007年• 女子部活動応援サポーター 2013年 出演 情報・スポーツテレビ番組• (2011年7月23日、2012年11月17日 )• (2011年11月20日、2012年5月27日 制作・)• (2012年12月23日 )• (2012年4月9日 、)• (2012年5月15日 )• (2012年9月4日 TBS系列)• (2012年9月9日、2012年9月23日 )• (2012年9月23日 )• (2012年12月29日、2013年1月5日、2013年1月14日 BS日テレ、、BS-TBS)• (2013年1月28日 )• (2013年2月5日 BS-TBS)• (2013年7月6日、2013年7月13日 BS朝日)• (2013年8月31日 TBS系列)• おしえて木村沙織選手(2013年12月30日、NHK総合) テレビアニメ• (2015年8月23日、) - 本人役 著書• 脚注 注釈• - Vリーグ オフィシャルサイト• 日本バレーボール協会. 2012年6月25日閲覧。 スポーツニッポン 2012年7月10日閲覧• 東レ・アローズ. 2013年9月9日時点の [ ]よりアーカイブ。 2012年7月10日閲覧。 number 2012年9月19日. 2012年12月14日閲覧。 日本バレーボール協会. 2012年9月7日閲覧。 東レアローズ. 2012年10月1日閲覧。 東京西川. 2013年1月31日閲覧。 トルコ航空. 2013年3月12日閲覧。 フジテレビ. 2013年3月8日閲覧。 スポーツニッポン. 2013年3月11日閲覧。 スポーツニッポン. 2013年3月12日閲覧。 フジテレビ. 2013年3月5日閲覧。 フジテレビ. 2013年4月23日閲覧。 日本バレーボール協会. 朝日新聞 2013年5月14日朝刊14版 24面• 日本テレビ. 2013年11月14日閲覧。 ダイキン工業. 2013年6月3日閲覧。 yahoo Japan ニュース. 2014年6月5日閲覧。 東レアローズ女子バレーボール部. 2014年6月5日閲覧。 Yahoo Japan ニュース. 2014年6月13日閲覧。 THE PAGE 2015年8月22日. 2015年9月2日閲覧。 - 日刊スポーツ、2016年5月18日• - 産経ニュース、2016年5月29日• - 日刊スポーツ、2016年5月19日• - スポニチ、2016年5月21日• - スポニチ、2016年6月27日• - スポニチ、2016年5月22日• 、2017年1月3日閲覧。 日本バレーボール協会. 2017年3月22日閲覧。 ORICON NEWS 2018年8月3日. 2018年8月7日閲覧。 2010年10月25日閲覧• 月刊バレーボール(日本文化出版)5月号、 スポーツナビ、2010年4月11日から引用。 伊藤昇 サンケイスポーツ、2010年4月11日を参考。 日本バレーボール協会. 2017年1月27日閲覧。 Vリーグ機構. 2017年1月31日閲覧。 2015年8月10日. 2015年8月10日閲覧。 関連項目 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (下北沢成徳高校の1学年後輩) 外部リンク• - Olympic results 英語• - 英語• - (2012年9月7日 - )•

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荒木絵里香

全日本 女子 バレー

バレーボール女子日本代表(2007年ワールドカップ) プレイスタイルについて [ ] 女子日本代表チームは以来の守備力重視のバレーを継承している。 の後は高さ重視のバレーで戦っていたが、主力選手の度重なる怪我により再度守備力重視のバレーに方針を転換した。 現在は守備力とスピードを重視したバレーを行っている。 「」を掲げる監督は、分業制で複数のコーチを起用。 には、トスから0. 8秒でサイド攻撃のスパイク(従来は1. 1秒ほど)という男子並みの「高速バレー」にも挑戦した。 ユニフォームについて [ ] 前後からを連想するとのを使用し、これが長らく日本代表の定番であった。 また、ではシャツとがオレンジ色のユニフォームを、ではそれぞれが深緑色のユニフォームを着用したが、ミュンヘン以後は再び赤と白タイプのものに戻った。 から現在に至るまで、社のユニフォームを女子は採用している。 に赤・青・深緑・黒を基調にした4種類のが登場。 しかしながら公式戦においてはかを着用することがほとんどであった。 にはタイプ(一般に発売されたのはセパレーツタイプ)、には一時期タイプを改造したタイプ、はまでは(9月のについては不明)定番であったブルマーだったがでタイプが採用され(ただし第3戦からはブルマーを着用 詳細は )、からはが採用され半袖になり、からは型に移行。 にはの着丈との股上が短くなり、シャツネームの愛称使用も導入された。 の頃にはまだ数名だったが 、その後肘・膝(パッド)は、従来の白でなく黒で統一されていった。 のでは、のでは代表ユニフォーム色としては珍しいが登場。 また、移動時やベンチではオレンジ色のジャージを着用した。 が発生したには、で左胸(日の丸の上部)に こころはひとつと小さく縫いつけられた。 また、その日のユニフォームの色に応じて赤・黒・紫のお揃いの細いヘアバンド(ヘアゴム)を着用して臨戦する選手もいた。 近年においては新デザインがお披露目されることがほとんどであったが、に於いては前年からのデザインのものを着用。 のから、動きやすさを追求した新ユニフォームを着用。 同年秋のグランドチャンピオンズカップでは、それとは異なる新ユニフォームを着用。 正面・脇に細かいのあるデザインで、新素材「テクノスパークLS」を使用し115g (従来比約10gの軽量化)を実現した。 また、全日本史上初となる、赤を基調としたシューズを着用。 なお、監督ほかスタッフのポロシャツ、選手の上ジャージは、共に色のものだった。 にはミズノ社の「火の鳥カラー」(オレンジ色)の試合シューズで色を選手全員統一した。 ユニフォームは従来通り3パターン(それぞれ赤・黒・白を基調としたもの)。 には「火の鳥 NIPPON」を炎に例えてきたユニフォームの最終形として、最も高温時に発色する「」を採用(シューズカラーも)。 これに伴い、パンツの色は従来の黒・赤の2種類から黒・紺へ変更となった。 呼称について [ ] かつては競技スポーツ全般において、日本のを「全日本」と呼ぶことが通例であったが、2019年現在、この呼称は使われなくなってきており、バレーボールに関しても報道機関によっては以前より「日本代表」と呼称している場合があった。 日本バレーボール協会でも、2018年までの「全日本」「全日本チーム」という呼称を変更し、2019年より「日本代表」を用いることとした。 () 、へ加盟。 初の世界大会となるの第3回では予選リーグを全勝で通過すると、進出した決勝リーグでも強豪国を撃破し、(現:)には敗れたものの初出場ながらを獲得した。 の第4回はの単独チームによる出場でを獲得。 のも日紡貝塚中心のチーム構成で金メダルを獲得し、監督が率いる同チームは と呼ばれた。 以後は日本とソ連が優勝を争う 日ソ2強時代がしばらく続き、の、のはいずれもソ連に敗れて銀メダルであった。 のでは中心のチーム構成で臨んだ。 「」など守りの粘りと、セッターの「世界一速いトス」によるの「稲妻おろし」やエースの「」、の「ロケットサーブ」などの攻撃で、他を圧倒し12年ぶりに金メダルを獲得。 ソ連との決勝では15-7、15-8、15-2のストレート勝ちを収め、大会史上初となる失セット0の完全勝利という快挙であった。 のの出場権は、優勝国として既に獲得していた。 選手強化も順調に進み、のプレオリンピックでも優勝したことで五輪連覇できる可能性はかなり高いと言われていた。 しかし同年開催国のソ連がし、これに対する対抗措置としてアメリカ政府が提案したオリンピックにが同調したため不参加となった。 低迷期へ [ ] のは逆にソ連がボイコットして不参加。 監督が率いる全日本は江上由美()やなど日立中心のチーム構成で臨み、準決勝でに敗れるも3位決定戦でに勝利しを獲得。 しかし、この銅メダルという不本意な結果に対し「単独チーム方式」では限界があるという声がしだいに大きくなり、の第10回では所属チームにこだわらず広く各チームから才能を集める「純粋選抜方式」で挑んだが、結果は7位と沈んだ。 のではやなど再び日立中心のチーム構成で臨むも、準決勝でに、3位決定戦で中国に敗れて初めてオリンピックでメダル無しに終わった。 その後はのでは5位、のでは9位と成績は下降を続け 、の最終予選では3連勝の後に中国・・・に4連敗を喫して初めてオリンピック出場権を逃した。 にが監督に就任、同年のこそ銅メダルを獲得したものの、では史上初のメダル無し、の第14回でも13位タイのワースト記録を更新するなど低迷を続けた。 さらに直後のでも中国と韓国相手に1セットも取れずに3位で終わったため、低迷の責任を取る形で吉川監督を含む強化委員全員が辞任する事態となった。 柳本監督時代 [ ] にが監督に就任、同年のではキャプテンとして全日本に復帰した、、といったベテランと、やなどの若手選手が融合したチームを作り上げて5位となった。 5月のでは最終戦でロシアに敗れたものの、6勝1敗の1位で2大会ぶりとなるオリンピック出場権を獲得。 同年8月のでは準々決勝で中国に敗れベスト8となった。 オリンピック出場とその後の、世界選手権での躍進によってチームは一時期の低迷を脱し、のではやなど若手の活躍によって24年ぶりに金メダルを獲得。 同年のでは7位に終わりオリンピック出場権は翌年の世界最終予選へと持ち越されたが、5月に行われたではが大会期間中に出場規定の変更を通知するというトラブルが発生したものの6勝1敗の3位で出場権を獲得。 同年8月のでは準々決勝でブラジルに敗れアテネと同じく5位に終わった。 眞鍋監督時代 [ ] 2009年度より監督が公募によって就任し、のへ向けた新体制が発足した。 を使用してデータを駆使する「IDバレー」を掲げ、に日本で行われた第16回では1982年大会以来28年ぶりにベスト4進出を果たすと、準決勝でブラジルの前にフルセットの末敗れはしたものの3位決定戦でアメリカをフルセットの末に勝利し、32年ぶりのメダルとなる銅メダルを獲得した。 のでは中国と同じ8勝3敗の成績ながらも勝ち点差2の4位でオリンピック出場権は翌年の世界最終予選へと持ち越されたが、初出場のやら新戦力の活躍などで結果的にロンドンオリンピックで金メダルを獲得したブラジルと銀メダルを獲得したアメリカにストレート勝ちを収めた。 しかし1位通過を目標として臨んだ5月のは序盤こそストレート勝ちによる開幕3連勝を飾るも韓国と対戦し敗れてからリズムに乗れず、出場権獲得はセルビアとの最終戦まで持ち越され最終的に4勝3敗の4位でアジア1位として出場権を獲得した。 同年8月のでは予選リーグを3勝2敗の3位で通過すると、準々決勝で中国に全セットが2点差決着というフルセットの激闘を制しソウルオリンピック以来24年ぶりのベスト4進出を果たした。 続く準決勝でブラジルと対戦しストレートで敗れたものの、3位決定戦で韓国にストレート勝ちで収めてロサンゼルスオリンピック以来28年ぶりのメダルとなる銅メダルを獲得した。 これを受けて日本協会は公募で新監督を決める予定を撤回して眞鍋監督に続投を要請し、同年10月にまで続投することが発表された。 7月25日、休業していた正セッターの竹下が引退を発表、五輪でもう一人のセッターだったは11月のから復帰した。 が腰痛でほとんど出場できない状況ながら他メンバーの活躍もあり、上位のブラジル・アメリカに敗れたものの、同大会における12年ぶりの銅メダルを獲得した。 2014年のでは、一人の選手が複数のポジションの役割を担う新戦術「ハイブリッド6」を採用し 、決勝ラウンドで初戦から4連勝し最後はブラジルと対戦して敗れはしたが同大会では初のメダル(銀メダル を獲得した。 ではアメリカと対戦して敗れ、2大会連続のメダルは獲得することが出来ず5位に終わった。 中田監督時代 [ ] 2017年度よりが公募によって就任し(女性監督は以来2人目)、2020年の東京五輪へ向けた新体制が発足した。 コーチの一人としてを起用(女子日本代表では初の外国人コーチ)。 エピソード等 [ ] 男女共にバレーボール日本代表の応援として定番の「ニッポン、チャチャチャ」であるが、この応援はの最古のサポーター集団「」が5月23日の日本VSの親善試合で初めて行なった。 なお、 バレーボールで最初に使われたのは11月13日にで行われた女子第5戦の戦である [ ]。 の管理栄養士が女子日本代表チームに派遣され、栄養面からのサポートが始まったのは。 が選手の協力を開始したのは、。 過去の成績 [ ] アジア選手権の成績 [ ]• 過去の代表は「」を参照。 2019年度の代表登録メンバーは下記の通り。 背番号はの番号。 監督 No 選手名 シャツネーム 身長 所属 P 備考 02 KOGA 180cm WS 03 IWASAKA 187cm MB 04 SHINNABE 173cm 久光製薬スプリングス WS 05 ARAKI 186cm MB 06 MIYASHITA 177cm S 07 ISHII 180cm 久光製薬スプリングス WS 08 UCHISETO 170cm トヨタ車体クインシーズ WS 10 TOMINAGA 175cm S 11 NABEYA 176cm WS 12 SATO 175cm S 13 OKUMURA 177cm デンソーエアリービーズ MB 14 KOBATA 164cm L 15 INOUE 162cm デンソーエアリービーズ L 16 KUROGO 180cm WS 17 TASHIRO 173cm デンソーエアリービーズ S 18 YAMAGISHI 165cm 埼玉上尾メディックス L 19 IMAMURA 176cm 久光製薬スプリングス WS 20 WATANABE 176cm トヨタ車体クインシーズ MB 21 OSANAI 175cm 日立リヴァーレ WS 22 YOSHINO 173cm 埼玉上尾メディックス WS 23 IRISAWA 188cm 日立リヴァーレ MB 24 AKUTAGAWA 180cm JTマーヴェラス MB 25 SEKI 170cm 東レ・アローズ S 27 NAKAGAWA 183cm 久光製薬スプリングス WS 28 ISHIKAWA 171cm 東レ・アローズ WS 歴代の監督一覧 [ ] 名前 再 国籍 就任時の所属 在任期間 - - 2 - - 2 ヤシカ 2 日立 - 2 ユニチカ - 日立 日立 - 3 ユニチカ - 日立 3 日立 2 - JVA 4 ユニチカ ユニチカ - NEC - - - 久光製薬 - 歴代の主な主将 [ ] 1960-1970年代 、、、、、、 1980年代 、、、、、丸山(旧姓江上)由美 再 、 1990年代 佐藤伊知子、、、中西千枝子 再 、 2000年代 、、、、、 2010年代 荒木絵里香、、 脚註 [ ] [] 注 [ ]• 790号• - SANSPO. COM、2011年3月25日• SANSPO. COM 2006年5月9日• - 日刊スポーツ、2008年5月24日• - バボChannet(バボちゃんネット) - フジテレビ 2009年8月7日• nikkansports. com 2011年11月14日• - サンスポ、2016年5月9日• - スポニチ、 2016年5月10日• - スポーツ報知、2016年5月19日 [ ]• nikkansports. com 2011年11月18日• スポーツ報知、2013年11月6日6面• ミズノ ニュースリリース 20131105• - 日本バレーボール協会• ミズノ• ミズノ 2015. - MIZUNO NEWS RELEASE 2016年3月18日• 日本バレーボール協会プレスリリース 2009年5月18日閲覧• 日本バレーボール協会プレスリリース• FIVB. 2010年5月28日時点のよりアーカイブ。 2010年8月7日閲覧。 菅原悦子• 日本バレーボール協会. 2014年8月22日閲覧。 日本バレーボール協会. 2014年8月23日閲覧。 - TRT 日本語、2017年3月31日• 株式会社 明治• - SANSPO. COM、2015年4月16日• - NPO法人日本バレーボール・オリンピアンの会• - JVA、2016年10月25日• - JVA、2016年10月26日 参考文献 [ ]• 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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