村上 春樹。 村上春樹は“父親の存在”とどう向き合ってきたのか? 新刊エッセイ『猫を棄てる』を読んで|Real Sound|リアルサウンド ブック

村上春樹 おすすめランキング (722作品)

村上 春樹

もくじ• はじめて語られた、村上春樹のルーツ 誌面には村上春樹さんの少年時代(8歳)の写真 村上春樹さんは今まで、ご自分の家族についてほとんど書いたことはありません。 奥様の話題などはエッセイなどでエピソード的に出てきたことはありますが、パーソナリティー的な部分を作品中に使うことはありませんでした。 ところが、このエッセイでは父・千秋さんの生い立ちから家族構成、従軍歴にいたっては年(場合によっては日付まで)などが 詳細に記述されています。 「語る必要があったのだ」と感じました。 もちろん、自分の家族に強い思いがあるのは当然です。 でも、 村上春樹さんにとって父親は特別な存在だったことが、この文章を読んでいて伝わってきました。 「職業的小説家になってからは父親と絶縁状態が長く続いていた」という告白も出てきます(理由は不明)。 しかし、村上春樹さんの文学的な素養に 父親の存在が深く結びついているのは間違いないと思われます。 印象的な2つのエピソード 書き出しに、父親に関してよく覚えているエピソードが2つ紹介されています。 自転車で猫を棄てに行ったこと 毎朝お経を唱えていたこと 猫を棄てに行った話 エッセイは子ども時代の夏、 海辺へ猫を棄てに行った話から始まります。 当時住んでいた兵庫県西宮市の夙川の家から、父親の漕ぐ自転車の後ろに乗り、村上少年は猫を入れた箱を持って、香櫨園の海岸まで行った。 そこで防風林に猫を入れた箱を置いて、また自転車で家まで帰ってきた。 しかし家について玄関の扉を開けると、 いま棄ててきたはずの猫がいて、鳴き声と共に出迎えられた。 「父の呆然とした顔が印象的だった」と書かれています。 家族に棄てられそうになったことがある(養子に出された)自身の経験から、父は「猫と自分」を重ねてみた部分があったのでは、というような想像がされています。 毎朝お経を唱えていた父 もうひとつ村上春樹さんが父親に関してよく覚えているのは、仏壇に向かって毎朝、目を閉じて長い時間お経を熱心に唱えていたこと。 お寺の息子として生まれ僧になる教育を受けたのですから、父がお経を唱えるのは不思議ではない気もします。 このエピソードも、後半で重要な部分と繋がります。 父は赴くはずだった壊滅的な戦争を、ギリギリのところで(幸運にも)免れることができた。 でも悲惨な戦争で仲間たちは、若くして命を落としていった。 彼がお経を唱えているのは彼らのためだったのです。 安養寺 (写真:) 村上家は「安養寺」という、京都にある大きなお寺でした。 千秋さんの父親(村上春樹の祖父)は 村上弁識(べんしき)という、いかめしい名前。 愛知県の農家の息子として生まれ、近くの寺に修行僧として出されたのだそうです。 長男以外の身の振り方として当時は珍しくなかったといいます。 弁識さんはあちこちの寺で見習い僧として修業を積んだあと、やがて京都の「安養寺」に住職として迎えられることになります。 「優秀な僧侶だった」ということです。 自由闊達な人で、豪快に酒を飲むことでも有名、名の通り弁もたち人望もある優秀な僧侶だった、と回想されています。 祖父の急逝 そんな元気な祖父が亡くなったのは70歳、雨の日に踏切を渡ろうとして誤って電車にはねられてしまったそうです。 弁識さんはまだピンピンしていて、まだまだ生きると思われている矢先の出来事。 家族にとっても「寝耳に水」だったようです。 母が泣いていた理由 祖父が亡くなった報を受け急遽京都に向かうとき、村上春樹さんの母が父にすがるように泣いていたことを覚えていると、エッセイには書かれています。 これは祖父(母からすれば義父)が死んで悲しかったわけではなく、その死によって発生する「寺の跡継ぎ問題」への憂慮からだったようです。 というのも、村上春樹さんの母親は船場にあった古い商家の長女。 船場 (大阪市中央区) というのは古くからある商業地区で、それなりに派手好きな人だった。 そんな都会的な人が「寺の嫁」になるなんてどうしても避けたかったのでしょう。 結局、父・千秋さんは教師の職を辞めるには至らずに、長男の四明さんが安養寺の住職の座に就くことを了承したそうです。 父の経歴 千秋さん(村上春樹の父)は小さい頃に奈良の見習い小僧として出されていたことがあるらしいです。 長男以外の男子が他家に出される、というのは「その家の養子になる」という含みを持ったものだったようです。 (祖父の弁識さんがそうだったように) つまり、千秋さんは順当に行けばその家の養子となり寺を継ぐ、という見積もりで他家に行ったのでしょう。 結局は環境に馴染めず、「健康をを害して」京都の実家に戻ってきました。 ここで、いちばん最初に出てきた「猫を棄てに行ったエピソード」が回想されます。 養子に出されそうになったけど戻ってきた自分と、棄てたけど戻ってきた猫の様子が、村上春樹さんの中では何となく似ているように思えたのでしょう。 いわば 「お坊さん養成学校」的なところらしいです。 今もと名前を変えて存続しています。 3度の徴兵 千秋さんが生まれたのはまさに「戦争の時代」で、お坊さんだろうが学生だろうがみんな徴兵されて軍隊で働く経験をせざるを得なかったようです。 あわせて3回の徴兵(招集)があったと書かれています。 1938年(20歳)~1939年8月 第十六師団所属・輜重兵第十六連隊• 1941年(23歳) 歩兵第二十連隊~輜重兵第五十三連隊• 1945年(28歳)中部143部隊(国内勤務の自動車部隊)~終戦 過酷な戦争でしたが、千秋さんは何とか生き延びて帰国。 そのおかげで、未来の貴重な小説家がこの世に生を受けたというわけですね。 父の軍歴を調べなかった理由 お父様が亡くなって5年ほど経ってようやく、彼の軍歴を調べようと決心できた、とエッセイには書かれています。 なかなか調べようという気になれなかった理由 は、千秋さんが配属されたのは第十六師団(伏見師団)に所属する 歩兵第二十連隊(福知山)だと思い込んでいたせいと述べられています。 なぜなら、「歩兵二十連隊」は 南京陥落の際に一番乗りをしたことで名を上げた部隊だったからです。 南京陥落は 虐殺行為があったとして知られている戦争。 父親は残虐な戦に参加したのでは、という疑念を持っていました。 そのために、真相を知ることにためらいがあったという心境は理解できます。 捕虜の中国兵を処刑した 子どものとき、父から「自分の所属していた部隊が捕虜にした中国兵を処刑した」と打ち明けられたとエッセイには書かれています。 父親がどのくらい処刑に関与したのかは不明ですが、部隊の誰かが軍刀によって捕虜の首をはねた、という光景は小さい村上少年の心に強烈に焼き付けられたようです。 この部分を読んで、ぼくは、長編小説「」に出てきた 中国人を処刑する場面を思い出しました。 小説では野球のユニフォームを着て脱走を試みた捕虜を、野球バットで殴殺する場面が生々しく描かれます。 この場面は、父から聞かされた話が村上春樹さんの心に強く残っていて、形を変えて(染み出るように)小説に登場したのではないでしょうか。 学問が好きで「頭の良い人」だった父親 父・千秋さんはそんな過酷な戦争時代(全部で3回も徴兵されている) を何とか生き延び、復学しています。 仏教の専門教育機関である西山専門学校を優等で卒業したあと、京都帝国大学の文学部文学科に入学しています。 仏教学校は授業時間が長く(修行もあるから?)科目も専門的なのでしょう。 そこから一般の大学に移るのは、よほどの勉強が必要だったはずです。 父からの慢性的な不満を感じていた そんな父親から見れば、自分の生活態度は期待に沿えるものではなかったと、村上春樹さんは回想しています。 自分が果たせなかったことを望み、それをしない(できない)息子対する 「無意識的な怒り」を父親からずっと感じていた。 でも自分には自分の考え方や生き方があるし、時代も違う。 この辺りは程度の違いこそあれ、いつの時代も多くの家庭に見られる現象ですね。 ただそれが、戦争に巻き込まれて思い通りの進路を進めなかったであろう父親が、一人っ子の息子に向かうときの感情の重みは相当なものがあったと想像できます。 頭の良い知的な親から向けられるプレッシャーが、逆に村上少年(青年)の当時としては先進的な文化への傾倒に向かわせたのでは、と想像することもできるかもしれません。 父との和解:最期の「ぎこちない会話」 成長し固有の自我を身につけていくにしたがって、父親との心理的な軋轢は次第に深くなっていった、とエッセイには書かれています。 村上春樹さんが大学在学中に結婚して店を始めるようになってからは、すっかり父親とは疎遠になってしまったとか。 プロの小説家になってからは関係はより屈折し、 最後には「絶縁に近い状態だった」(小説家デビュー自体はとても喜んでもらえた) そのあたりの父と子の生々しい葛藤については「多くを語りたくない」と正直に書かれています。 ようやく顔を合わせて話をしたのは父が亡くなるなる少し前。 村上春樹さんは60歳近く、千秋さんは90歳を超えた頃でした。 癌と糖尿病で痩せこけた父と、 ほんの短い期間、ぎこちない会話を交わし「和解のようなことがおこなわれた」 そのときに親子を繋ぐ縁が、ひとつの力をもって自分の中で作用してきたことを感じたと書かれています。 感想 今回のエッセイ「猫を棄てる」は、 今までの村上春樹さんの文章とはすこし「違う匂い」がすると感じました。 具体的にいうと 「この文章はエッセイ集の中に収めるタイプではない」という意味です。 ノン・フィクションというだけでなく、今までの村上作品とは明らかに異質の空気が漂っているのです。 「猫を棄てる」は、家族のことを記録するようにに綴った文章です。 いわゆるノンフィクションですが、「ただの記録文」というような文章でもありません。 随所に当時の記憶や思い出が語られています。 ただそれについても 湿っぽい感情みたいなものは皆無です。 でも、ぼくはこの文章の中に哀悼だけではない「父親への想い」が感じられるような気がしました。 読ませる文章 小説でもエッセイでも、今回のようなノンフィクションでも、「読ませる文章」である点は他の村上作品と同じです。 極端にいえば、 誰も知らない人間の生い立ちだろうと、 なんの変哲もない料理の描写であっても、 村上春樹の手にかかれば「読まされる文章」になるんだと思いました。 それを簡単に「文章力がある」と片づけるには単純すぎます。 でも、「芸術的」とも違う。 村上春樹の文章は芸術的ではない 、と思っています。 むしろ、「常用的」というか、普段使い的な感じがある。 例えるなら「完璧なまでに練り仕上げられ、ものすごく読みやすい取り扱い説明書」みたいな実用感がある気がするのです。 少なくともぼくが村上春樹の作品を通読している理由は、芸術性というより「読ませる文章だから」と思っています。 「何を書いても面白く読ませる」ことが熟練のなせる業なのか、単に才能なのか、ぼくにはずっと分かりませんでした。 もちろん今でも判明してなどいませんが、この「猫を棄てる」を読んで分かったことがあります。 素養と環境が揃っていて、なおかつ時代の偶然に生まれた才能である、ということです。 両親ともに国語教師 本人はあまり特別に扱われていませんが、父親も母親も国語教師というのは、当時でも現在においても「けっこう特殊な環境」だと思われます。 もちろん親が国語教師だから小説家になれるわけではありません。 いくら両親が(とても優秀な)教師であっても、それだけで非凡な文才を持てるとは限りません。 でも大きな要因のひとつだったことは間違いないと思います。 最後に 感想はぜんぜんまとまっていませんが、この記事を読みに来てくれる人は村上春樹の最新の原稿に興味がある方だと思うので、中途半端な状態でアップしてしまいます。 求められている情報は文章の要約で、個人的な感想みたいなものは「おまけ」みたいなものだと思うからです。 書かなくてもよかったのでしょうが、ぼくもブログを書いている一人の人間として、村上春樹ファン(ご本人が言うところの『村上主義者』)として、個人的な感想も少しは織り交ぜたいと思って書きました。 お読みいただきありがとうございました。 おわります。

次の

村上春樹、6年ぶり短篇小説集『一人称単数』収録作&扉絵公開 装画は豊田徹也(リアルサウンド)

村上 春樹

2020年7月18日、村上春樹6年ぶりの最新短編集『一人称単数』が発売された。 たとえば出会った女性とカジュアルに(インスタントに?)性行為に及ぶ主人公の男性。 付き合っていた女性の自殺。 「中心が複数あり、外延のない円」などと思わせぶりなことを語って消えていく老人。 ドーパミンに駆動されて女性の名前を盗んで我が物にするという猿。 「水辺で3年前に起こったことを忘れたのか?」と女に問われ、蛇の無数にいる街路に紛れ込んでしまう男性。 1955年に死んだはずのチャーリー・パーカーが63年に『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』というアルバムを出していたという架空のレビューを書いたのちに、ニューヨークのレコード店で同名のアルバムを見つける、とか、『羊をめぐる冒険』を刊行した年に『ヤクルト・スワローズ詩集』という本を出した、といった偽史(架空の歴史)。 といった具合だ。 謎めいた存在や現象が描かれ、思わせぶりなことが語られ、「~~だろうか」「~~かもしれない」などと読者に問いかけたり、推測は書かれたりするが、作中で特に答えは示されずにどんどんと進んでいく。 ゆえに読者それぞれが想像を巡らせ、ああでもないこうでもないと読者同士で語り合い、考察や批評が誘発される。 そういった謎や問いかけ過多な書き方に加えて、現実世界の歴史的事実との微妙な差異や、先行作品・作家(ないし思想)を思わせる要素の存在がばらまかれていることが、「現実と小説の中の記述を比べれば/先行作品・作家と村上春樹を比べれば、謎が解けるのでは?」という誘惑をさらに促す。 実際には比べたところで評論が一本できあがるだけで何も謎は解けない(そもそも答えはどこにも書いていない)。 ただ多面的に用意されたフックに反応して「こういう読み方ができる」と積極的に動いてくれる人たちの存在が、ハルキの長編をバズらせてきた。 しかし逆に言えば「この作家は、こういう要素と、こういう要素と、こういう要素でできていて、自分はこういうところが好き(またはきらい)」と確認するには短編集はうってつけだ。 「スワローズについての詩集を出した」といった虚構が混じることもあり、ほかの記述も額面通り受け取る人はいないだろうが。 このコロナ禍で自分の人生のこれからをどうするか考えた人も多かっただろう。 そのためにこれまでの人生がどうだったかを振り返った人も。 前半に収録された作品を読みながら私もそういうことを考えていたが、後半は日本語を解する猿が出てきたりするので、そんな読み方はやめてしまった(個人的には中盤以降に収録されている、ファンタジー文学的な手法が用いられた「クリーム」「品川猿の告白」、ラブクラフトを思わせる、忍び寄る恐怖演出が印象的な「一人称単数」が好みだった)。 『一人称単数』のなかでは何度も死がフォーカスされる。 それ自体は初期作品から変わらないといえば変わらないが、30代で描いていた死と、自らの人生の残り時間をいやでも考えてしまう年齢で書くものとでは、やはり異なる印象を受ける。 このあとそれを見据えた長編をおそらく書くのだろうとも感じさせる。 『MISSING』にしろ『一人称単数』にしろ「最高傑作」とは言いがたいが、その自伝的な(?)要素もあいまって、彼らの仕事/ミームを誰がどのように継承していくのか、あるいはどういった部分は継ぐような存在はいないのか、彼らがデビューした70年代後半から現在まで、そしてこれからの文化史を考えさせられる作品である。

次の

村上春樹の名言・格言(小説家の言葉)

村上 春樹

村上春樹が初めて父親の戦争体験、自身のルーツについて書いた『猫を棄てる 父親について語るとき』が大きな話題を集めている。 昨年、月刊『文藝春秋』6月号で発表された本作。 書籍化に際し、台湾のイラストレーターによる13点の叙情豊かな挿絵が添えられている。 村上春樹は本作『猫を棄てる 父親について語るとき』のあとがきに次のような言葉を寄せている。 身内のことを書くというのは(少なくとも僕にとっては)けっこう気が重いことだったし、どんなところからどんな風に書き始めれば良いのか、それがうまくつかめなかったからだ。 村上の父親が90歳で亡くなったのは、2008年のこと。 その翌年のエルサレム賞の受賞スピーチ「壁と卵」で彼は、父親のことを話した。 毎朝、朝食の前に仏壇の前で長い祈りを捧げているのを見て、村上が「なぜそんなことをするのか」と尋ねる。 すると父親は「あの戦争で亡くなった人のために祈っているのだ」と教えてくれた……というのが、その内容だ。 このエピソードは、彼の小説の読者に強いインパクトを与えた。 それまで村上は、ほとんどと言っていいほど、父親について語ってこなかったからだ。 それは小説、映画、マンガをはじめ、物語作りのもっとも根本的な構造なのだ。 しかし村上は、特に初期の作品において、父親的な存在を完全に消し去っていた。 『羊をめぐる冒険』(1982年)『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)『ノルウェイの森』(1987年)といった初期の代表作の主人公は家族を持たず、大きな企業に属することもなく、個人的な生業で日々を過ごしている。 この話法を取り入れることによって村上春樹の小説は、それまでの日本文学とはまったく異なる文脈を作り上げた。 父親の不在、地縁的な描写の欠如は当時、賛否両論を巻き起こしたが、その作風は若い世代を中心に大きな共感を集めた。 作中では主要な登場人物である間宮中尉の独白として語られるが、このエピソードが村上の父親の実体験に裏打ちされているのは間違いないだろう。 「父と一緒に海岸に猫を棄てに行ったときのことをふと思い出して、そこから書き出したら、文章は思いのほかすらすらと自然に出てきた。 」という村上自身の記述の通り、この思い出は彼の記憶に強く刻まれていたようだ。

次の