ユーノス コスモ。 【ユーノス コスモ】加速は最高で燃費は最低!20Bエンジン搭載の中古車価格も

中2で一目惚れ。20年間このクルマ一筋!1990年式マツダ ユーノスコスモ 20B タイプE CCS(JCESE型)

ユーノス コスモ

型式 E-JC3S 最小回転半径 5. 31m ドア数 2 ホイールベース 2. 07m 4WS - 車両重量 1490kg シート列数 2 最大積載量 -kg 乗車定員 4名 車両総重量 -kg ミッション位置 フロア 最低地上高 0. 31 - - 6. 9 1308 FR 4 -万円 4. 31 - - 6. 9 1308 FR 4 -万円 4. 31 - - 6. 1 1962 FR 4 532. 5万円 税抜 4. 31 - - 6. 4 1962 FR 4 -万円 4. 31 - - 6. 1 1962 FR 4 399万円 税抜 4. 31 - - 6. 4 1962 FR 4 -万円 4. 31 - - 7. 1 1308 FR 4.

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中2で一目惚れ。20年間このクルマ一筋!1990年式マツダ ユーノスコスモ 20B タイプE CCS(JCESE型)

ユーノス コスモ

概要 [ ] 5月に国産車初の搭載車として発売。 (昭和47年)から(昭和50年)までは一時期絶版車となっていたが、同年に復活。 (平成2年)からは同年から展開されたブランドのフラッグシップモデル、 ユーノス・コスモとして登場し、(平成8年)まで発売された。 モデルは全てタイプのボディを持っていたが(3代目のみ4ドアも設定)、その性質は世代によって大きく異なっていた。 また、3代目以外は世代ごとに異なるサブネームをつけて発売されていた。 同時に世界初の実用・量産を搭載した自動車でもあった。 なお、世界で初めて市販されたロータリーエンジン搭載車は、正確には旧が(昭和39年)に発売した車のである。 これに搭載されたエンジンは、ロータリーエンジン特有の多くの課題が未解決のままであり、いわば「見切り発売」であった。 またそれは、シングルローターのエンジンであった。 これに対し、コスモスポーツに搭載されたは、それらの課題を克服して量産に耐えうるものであった。 このため10A型エンジンは、世界初の実用・量産ロータリーエンジンである。 また、10A型エンジンは、多気筒(マルチローター)ロータリーエンジンとしても世界初の市販車用エンジンであった。 ロータリーエンジンの特性は、それまで各種のロータリーピストンエンジン理論において証明されていた。 しかし、100年以上の理論的蓄積にもかかわらずロータリーエンジンは量産されるには至っていなかった。 このため、10A型エンジンの搭載車であるコスモスポーツは、ロータリーエンジンを量産車のエンジンとして最初に搭載した記念すべき存在といえる。 (昭和43年)8月、mazda110Sの名でコスモスポーツを擁してで行われた84時間「マラトン・デ・ラ・ルート」に挑戦した。 このレースは、生産車のスピードと耐久性が競われる文字通りのマラソンレースで、、、、、、、などと激戦を展開した。 結果は、完走を果たすのみならずポルシェ・ランチアに次ぐ総合4位(順位は84時間後の走行距離で決められる)となった。 参加59台中、完走はわずか26台であった。 コスモスポーツに搭載されたは、それ以降、などに搭載された。 10A型エンジンは5つのハウジング(2つの筒と3枚の板)で構成されており、開発目的が量産規模の小さいスポーツカー搭載用であるため、エンジンは0813 13 101cの2台のローターハウジング迄含み全て総であった。 コスモスポーツ以後の量産モデルでは、サイドハウジング(フロント、インターミディエイト、リアの3枚)がに変更されている。 コスモスポーツの10A型エンジンは炭素鋼がされており高価かつ手の込んだものであるのに対し、10A型エンジンより後のエンジンでは、特殊鋳鉄を高周波加工したものが採用され、量産化・低コスト化が図られている。 また、加工法もコスモスポーツの砂型に対し鋳造とされ、大量生産された。 コスモスポーツは、前期型(L10A型)が(昭和42年)に343台販売されたのを皮切りに、(昭和47年)の後期型(L10B型)の最終販売車まで累計1,176台が販売された。 発売までのロータリーエンジン開発経緯は、を参照。 車両の展示はなかったが 、当時の松田恒次社長が自らコスモスポーツの一次試作車「MAZDA 802 L402A 」のステアリングを握り、遠路はるばる広島から自動車ショーの会場に乗りつけて話題をさらった。 また、帰路には各販売会社、の、首相などを訪問したというエピソードも残っている。 なお、初めてコスモスポーツのプロトタイプが一般に公表されたのは、自動車ショーが開催される6日前の1963年10月20日付け朝日新聞紙上 においてであり、これは朝日新聞のスクープであった。 ちなみに、一次試作車は少なくとも二種類存在し、「広 5 そ 32-85」のナンバープレート(1963年8月登録)が取付けられた個体は、前後ウインドウスクリーンのウェザーストリップにメッキモールがなく、ワイパーは平行式の3ブレードで、クォーターピラーのエンブレム取り付け位置は下寄り、カーラジオのアンテナの取付け位置はリアガラスとトランクリッドの間、横長のテールランプは中央に仕切りのある四灯タイプ、という仕様であった。 「広 5 そ 57-35」のナンバープレート(1963年10月登録)が取付けられた個体は、前後ウインドウスクリーンのウェザーストリップにメッキモールが有り、ワイパーは平行式の2ブレードで、クォーターピラーのエンブレム取り付け位置はピラーの中央、カーラジオのアンテナの取付け位置は右リアフェンダー上部、横長のテールランプは中央に仕切りがなく外観上は二灯式に見えるものであった(内部に仕込まれていたランプの数は、32-85車に準じていたと思われる)。 この二台の「MAZDA 802」が、サプライズとして自動車ショーの駐車場に姿を現した。 一次試作車は、自動車ショーが開催されるまでに5台製作されている。 翌(昭和39年)のからに開催された第11回東京モーターショーに、初めて実車()が正式に出展された。 出展時の名称は「MAZDA COSMO」であった。 ショー出展車は二次試作車で、一次試作車とはテール部分の意匠が大幅に異なり、量産車に近いものとなっていた。 また、サイドウインドウに三角窓が追加され、ワイパーは2ブレードの対向式となり、外観上の特徴の一つであるフロントフェンダーのルーバーが、一次試作車の六つ穴メッキ物から細いスリットのメッキ物に変更されていた。 二次試作車までは、ルーフの後部に左右のクォーターピラーまで覆う 白いカバーが取付けられていた ことも、外観上の大きな特徴であった。 二次試作車は複数製作され、ワイパーが平行式2ブレードのもの、ホイールカバーがハーフカバータイプで5穴のホイールが装着されたもの、センターロック式のワイヤースポークホイールが装着されたもの、クォーターピラーの幅が狭いもの、カウルトップの通気口が一次試作車と同様に格子状のもの、フロントフェンダーサイドのエアアウトレットがルーバー状でないもの、ドアのアウターハンドルが長くドアパネルに窪みがないもの、フロントターンシグナルランプのレンズがアンバー色のものなど、様々な仕様が存在した。 (昭和40年)からに開催された、第12回東京モーターショーにもコスモスポーツのプロトタイプが出展された。 出展車の名称はこの年も「MAZDA COSMO」であった。 三次試作車と思われる出展車は、白いルーフカバーが省略されルーフ全面とクォーターピラーが白塗装となり、フルカバータイプのホイールカバーの意匠が少々変更されていた。 また、フロントフェンダーのルーバーがフェンダーパネルに直接スリットをプレス成型した簡素なものとなっていた。 これは、部品点数と製造ラインでの工数を削減しコストを下げるための設計変更とされる。 この時の展示車は 最終生産型と発表され、全国各地のマツダに委託して実用化テストを行う事が公表された(その際、詳細を公表せず)。 「社外委託試験車」と名付けられた試作車は、車体各部の特徴から三次試作車の「MAZDA COSMO」或いは三次試作車の改良型だったと推察される。 社外委託試験は当初、(昭和40年)8月から開始され、貸与される試験車の数は30台の予定であった。 (昭和41年)からに開催された、第13回全日本自動車ショーにも続けてコスモスポーツのプロトタイプが出展された。 出展車の名称は「MAZDA COSMO SPORTS」だった(市販モデルの名称は「MAZDA COSMO SPORT」)。 実用化テストに基づき更なる改良が加えられ、(昭和42年)春発売予定、価格未定とアナウンスされた。 市販までに、社外委託試験は各地のディーラーに貸与された「MAZDA COSMO」47台 により、(昭和41年)1月から12月まで1年の期間を費やして実施され、その間、本社では試作車による10万kmに及ぶ連続耐久テストを含み、総距離300万kmにも達する走行テストが行われた。 車重は940と比較的軽量であった。 エンジン以外の基本レイアウトは、この時代では常識的であったであるが、当時の日本製乗用車としては相当に高度なスペックが奢られていた。 ギアにはクイックな形式を採用している。 は4速フルで、ブレーキは前輪がダンロップ型、後輪はアルフィン・であった。 なおブレーキは前後2系統が独立したタンデムマスターシリンダー式となっており、どちらかが故障した場合に備えた安全性の高いものとなっていた。 ロータリーエンジンは極力低く、そして後方に配され、のちのマツダのともなるフロント・の発想が既に生かされていた。 重量物であるは、前期型ではに置かれ、後期型では助手席後部に設けられたツマミで開閉する蓋付きのケースに収められた。 ボディ [ ] ロータリーエンジン搭載用に専用設計されたボディはセミ方式であった。 ボディは開口部以外には継ぎ目がなく、ハンドメイドのスペシャルカー然としていた。 また、開口部のリッド類は来たるべき高速時代を見越して、全て安全な前(エンジンフードは逆アリゲーター)とされた。 デザインにあたっては革新的なロータリーエンジンにふさわしい、大胆かつ斬新なスタイルが望まれた。 開発当初、当時の社長であるから「売り出すつもりのないイメージカーだ」といわれたからこそ、この思い切ったスタイリングが生まれたともいわれる。 全高は1,165 mm と低かった。 「軽量コンパクトなロータリーエンジンでなければ成しえないデザインを」という、学芸大卒業のマツダ初のデザイナーの意図はその低さに結実し、伸びやかなリア・、ボディー中央を走るラインとあいまって、コスモスポーツの未来的なイメージをさらに強調している。 の低さとエンジンフード(リッド)の小ささは、ロータリーエンジンのコンパクトさを暗示している。 また、を境に上下に分けたも特徴的である。 ただし、全長に比してリアオーバーハングが大きいスタイルのため、運動性の面では不利なものとなり、「スポーツ」の名とは裏腹に、むしろカーとしての性格が強くなった。 内装 [ ] 後期型コスモスポーツの。 () フルパッドのに組み合わされるアルミニウムのインパネは艶消しの黒で統一され、無反射ガラスの7連(左から、、、、、、の順)が整然と並ぶ。 内装は天井も含めて黒ののフルとされ、通気性を考慮し、シート中央のみ白黒の柄のを使用している。 前期型のL10Aは法制化前のため、が無い。 床敷物は真っ赤なで、は自然に手を下ろした位置にあり、腕を大きく動かすこと無く操作できるショートストロークとなっている。 製オート、を上下に作動させるタイプのセミオート・、メーター照度調節、音質切替え(用、用)、2スピード(払拭中にスイッチを切っても停止位置に復帰するタイプ。 高速時の浮き上がりを防止するフィン付き)、さらにマップ・足元(ドア開閉連動)・・トランクの各ランプなども標準で装備されていた。 ドアは二段チェッカーであり、スマートに乗り降りできるように考えられていた。 座席の後ろには手荷物を置くためのスペースが設けられ、固定用ベルトも装備されていた。 リアガラスは非常にの大きなものが用いられ、室内の開放感を高めた。 、および歴代のリアガラスは、このとされる。 助手席側サンバイザー裏面には鏡、足元には、グローブボックス脇にはアシストグリップも装備された。 内装のデザインは、相馬亮一をチーフとする内装チームが担当した。 販売価格 [ ] 価格は148万円で、同時期の性の高い車種で比較すると、の172万円ほどではないが、2000の88万円、2000GT-Bの94万円と比べるとはるかに高価であった。 走行性能 [ ] ロータリーエンジンの走りは、とはまさに異次元の感覚をもたらした。 当時、ほとんどのレシプロエンジン搭載の国産車は4,000 rpmを過ぎたあたりからとが大きくなり、100 を超える高速走行では会話すら困難となり、怒鳴りあうようにしなければならないこともままあった。 しかし、ロータリーエンジンはの7,000 rpmまで静粛かつスムーズに吹けあがった。 誌によるマツダ製ロータリーエンジン車のテスト結果を以下に示す。 コスモスポーツ L10A : 8. カペラロータリークーペGS: 7. 6 km、10月号)• サバンナRX-7リミテッド SA22C : 7. サバンナRX-7 GT-X FC3S : 5. アンフィニRX-7 type R FD3S : 5. 後期型 [ ] コスモスポーツ後期・右側面(マツダミュージアム、2005年3月撮影) (昭和43年)7月には早くも(L10AからL10Bに形式変更)が行われ、の拡大、ブレーキ冷却口の新設、・の拡大、の5速化、前後ブレーキへのハイドロマスター()が装着された。 8秒となった。 マイナーチェンジによって、当時としては高級品であった製のがオプションで装着可能となった。 このヂーゼル機器製クーラーの価格は40万円を超えたという。 ユニットは座席後ろの手荷物スペースに置かれたため、冷風は後方から吹き出す形であった。 コスモスポーツ専用設計のクーラーであったため効きは悪くなかったが、スナッチが発生しにくいロータリーはTOPギアで低速走行が可能であったため、当時の取扱説明書では「クーラ装着車はクーラ作動時、シフトをTOPおよびにし、エンジン回転1,500rpm以下の低回転でノロノロ運転している場合オーバ・ヒート気味になることがありますので、このような場合はシフトを2速か3速にして運転してください。 」(原文)と注意を促している。 また室内のウォッシャー・・ディマー・の4スイッチが、1本のコンビネーション・レバーにまとめられた。 3点式、調整可能なも後期型より装備された。 パーキング(エンジン始動時自動消灯)や非常灯も装備された。 この後期型(L10B)の価格は158万円であった。 なお、車両型式名はL10Bとなり、エンジンの排気量は変わらず型式も10A型のままであったが、や、などの仕様が数回変更された。 その他 [ ] コスモスポーツの発売に合わせ、東洋工業は、1967年の各紙に「世界の注目をあつめてロータリーエンジン搭載車いよいよ登場! 」と題する全面を出した。 その広告は全面であることを生かし、市販量産車としては世界初のエンジンであること、耐久性、革新性、スムーズさ、スタイリング、保証制度、装備、会の告知等を訴えるものであった。 その翌日の、今度はがの全面広告を出しており、当時のトヨタのマツダ・ロータリーに対する対抗意識が垣間見える。 その後、6月6日から11日にかけて、ので、コスモスポーツ発表会が開催された。 コスモスポーツ1号車が出品され、・・試乗会といった内容であった。 松下電器産業(現)創業者のはと親交があり、を評価して、コスモスポーツの顧客第一号となった。 翌(昭和42年)には、 - 間が開通したに、高速として第八方面に配備された。 (昭和46年)の特撮テレビ番組『』にて、防衛チームMATの専用車両「マットビハイクル」として後期型が登場している。 その未来的なフォルムを生かして、大きな改造は無く ほぼ量産車そのままの外観で使用されている。 また、同作のオマージュ要素が強い「」にもNERV官用車として登場している。 APとはアンチポリューション・対策の意味である。 後にマツダが初めて発表したモデルで、コスモスポーツと路線の異なるとなった背景には、市場の要求があった。 このため内装、装備に至っても高級感と豪華さを押し出したものとなり、赤いボディカラーとともに注目を受ける存在となった。 CMキャラクターは。 の『』をCMソングに起用し、同曲は大ヒットを記録した。 コスモAPは、2代目ののを共用化して、マツダのとして、サスペンションや内装や装備を新設計した。 またコスモで新設計したパーツは、他のマツダ車への流用(ルーチェやカペラ等)を考慮して、部品共用化によるコストダウン効果を狙った。 REの12Aとレシプロエンジンは、リミテッド以外のモデルに搭載した。 以降のマツダ車では、このAアーム式のストラットが標準機構となる。 リアは、車軸式ではあるが、板バネからカペラで採用したリンク式に変更され、サスペンションの特性を向上させた。 板バネであれば、後方からの衝突に対して衝撃緩和が可能になるということとコストメリットで採用していたが、操安性を改善させるために変更した。 このうち、レシプロの2000㏄のエンジン(MA型)は、によるを使用したエンジンで、業界初のエンジンとなり、コスモLの発表時に追加した。 1800㏄のVC型は、式の公害対策を行っていたので、徐々にMA型に変更されていった。 のマイナーチェンジでは、異型角形2灯のヘッドランプと格子調のグリル、横長のテールランプへと変更され、雰囲気が一変した。 当時は折からのの影響によって、スポーツモデルが次々と消えていこうとしている時期であり、その中で登場したパワフルなコスモAPは一際目立つ存在となり、発売から半年で2万台を売り上げる大ヒット作となった。 輸出名はロータリーエンジン搭載車が「マツダ・RX-5」、レシプロエンジン搭載車が「マツダ・121」であった。 コスモL [ ] コスモAPから遅れること2年、にバリエーションモデルとして追加された。 最大の特徴は、その名のとおりランドウトップにある。 これも北米市場からの強い要求によるもので、をはじめのおよびなども2種類のバックスタイルのクーペボディをそろえている。 ランドウトップのコスモLはリアシートの頭上高に余裕があり、居住性が良いことと、クオーターウインドウ(オペラウィンドウと呼称していた)が小さく、が守れることで、コスモAPとの性能、装備の違いは無くとも、やや高い年齢層に向けた高級モデルとしての位置づけであった。 1979年マイナーチェンジ。 APと同様に異型角形2灯のヘッドランプと格子調のグリルへと変更。 市場での評価とは別に、内での評価は全く異なるものがあった。 ファストバック車両の場合は、プレスした車体パネルをする際、Cピラーの溶接部分が表に出てしまうので、通常はで表面を埋めてなだらかに仕上げる工程があった。 ランドウトップでは、この工程を省略できたので公害も発生せず、その意味で高い評価を得ることになった。 ボディバリエーションは3種類を揃えたが、それぞれの登場時期は複雑で、まずは9月に2ドア・ハードトップが先行発売され、同年に4ドア・ハードトップ、2週間後のに4ドア・セダンとロータリーエンジン搭載車がそれぞれ時期をずらして発売された。 空力に配慮されたデザインが特徴であり、ハードトップは4灯式のを持つ。 中でも2ドアのCd値は当時としては世界トップクラスの0. 32を記録していた。 12A型ロータリーエンジンは新たに6PI(シックス ピー アイ)と名付けられた、6ポート・インダクションを採用、これは従来1ローターあたりプライマリーポート、セカンダリーポートと吸気ポートを2つ(2段階)設けていたものを、新たにセカンダリーポートをメインポートと排圧で開閉する補助ポートとに分割し、1ローター毎3ポート(3段階)、2ローターで計6ポートとしていた。 これにより回転数や負荷に見合った吸気タイミングの最適化を図り、燃費や出力の向上を謳っていた。 10月、ロータリー・ターボ車を発売(ルーチェとともに世界初)。 「全域・全速ターボ」と名付けられたこのエンジンは、1982年当時の国産車の中ではトップクラスの性能を誇り、1980年代に行われる高性能戦争へ先鞭をつけた。 インテリアでは、ながら面積変化で情報を伝える、サテライトスイッチの影響が見られるメーターナセル両端に配した、灯火類、などのスイッチ、()を見せるデザインの正立型を採用した(と共同開発)、シートバックの中折れ機構などに特徴がある。 自動車ジャーナリストのは、1982年9月にコスモ・ロータリー・ターボを自動車ジャーナリスト3人で(現・)のにおいて、谷田部24時間耐久テストを行った。 高速耐久トライアルとしてはによるものが有名であるが、6時間時点での2000GTの新国際記録210. 10月、マイナーチェンジ。 個性的なデザインからかルーチェともども販売が芳しくなく、4ドア・ハードトップのフロントマスクを一般的な固定式ヘッドライトへと変更した。 同時に4ドア系にロータリー・スーパーインジェクション SI 車を設定する。 なお、2ドア・ハードトップは従来のリトラクタブル・ヘッドライトを継承した。 9月、2ドア・ハードトップをマイナーチェンジ。 「GT」以外の改良を行い、4ドア同様の固定式ヘッドライトに替えられる。 5月、モデル末期のグレード整理とテコ入れとして、レシプロエンジン車に「ジェンティール」シリーズを投入。 1990年4月のユーノスコスモ登場まで継続生産する。 10月、ボディーカラー一部差し替え 4月、ユーノスコスモの登場により、2代目の生産終了。 キャッチコピーは『 クーペ・ダイナミズム』。 ボディは2ドアクーペのみ。 当時、マツダは販売チャンネルの拡大戦略を図っており(マツダ、ユーノス、、、)、この車はユーノスブランドのであった。 同社では初代コスモスポーツ以来のロータリーエンジン専用車であり、エンジンにはと、市販車では世界初となる3ローターの20B-REW型の2種が設定された。 この車に使用されたユーノスのエンブレムはコスモスポーツのようなローターを象ったものである。 耳目を集めた世界で初めての「CCS」と呼ばれる(と共同開発)を20Bエンジン搭載車に標準装備した。 また、高級クーペらしく内装にも相応のこだわりがあり、イタリアで誂えたウッドパネルをインパネに装着、しかし全面に貼るようなことはせず、効果的に配して品よくまとめられていた。 さらに、フルオートエアコンの操作はカーナビディスプレイを兼ねるでのみ操作が可能という当時としては画期的な方式で、以降各社でも高級車を中心に普及することとなった。 カーナビが標準装備されない場合は液晶付きフルオートエアコン操作パネルが付く。 いずれも、これは日本車としては初の採用であった。 グレードはTYPE-ECCS・TYPE-E・TYPE-S(前期・中期型)・TYPE-SX(後期型のみ)。 はを採用している。 マツダエンジニアの夢であった「 V型12気筒エンジン並の滑らかさを持つ」と言われる3ローターエンジンである20Bエンジンは非常に高出力で、当初333馬力で設計されていたが、当時のの行政指導により(後にRX-7用2ローター13B-REWも280馬力を達成する)に収めることが必要となり、デチューンのうえ市販された。 ターボへの排圧を低くし最高出力を抑えるため13Bに比べ排気ポートが変更されている。 20Bのローターとローターハウジングは13Bと同寸で、も3ローター車は3,500 cc以下区分に該当する。 その高燃費ぶりは、の時代ですら、買うことをためらわせるに十分な要因であった。 シーケンシャルツインターボは、RX-7(FD3S型)に搭載されているそれとは相違し、プライマリー側とセカンダリー側で異なったサイズのタービンが採用された。 20B-REW搭載車のマフラーは高回転域で経路が変更される可変排気機能が採用されており、4本のマフラーが回転により開口ポート数が変化した。 外観では13B-REW搭載車のテールパイプが2本出しであるのに対し、20B-REW搭載車のそれは4本出しとなっており、容易に区別が付く。 ターボ過給された3ローターエンジンの大パワー(高トルクと高回転)に耐えられる乗用車向けMT用クラッチが当時は開発されていなかったため、当時のスポーティーカーとしては異例となる全グレード車のみの設定となった。 また、AT向け多段式変速機も存在していなかったため、全車4速ATのみであった。 (平成3年)には、ハードサスペンションやのホイールを装着した特別仕様車、TYPE-SXが登場した。 開発当初はの装備が企画されており、液晶を用いた先進的な透過率可変式が予定されていた。 生産車にも専用回路が存在していたが、ノイズ処理や耐久性などの問題をクリアできておらず、販売の低迷でコスモ自体の採算が見込めなくなったため断念された。 8月 、生産終了。 在庫対応分のみの販売となる。 6月、在庫対応分がすべて完売し販売終了。 コスモの車名は初代と2代目の間に挟まれた生産停止期間を含めて29年の歴史に終止符を打った。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• モーターマガジン '63年12月号 P28及びP87• 月刊自動車 '63年12月号 P50• 日本のショーカー1 1954〜1969年 P. 毎日グラフ '65年5月1日号 P88• 日本のショーカー1 1954〜1969年 P. Nostalgic Hero Vol,38 1993年8月号 P62• 2017年5月30日. 2017年6月11日閲覧。 デアゴスティーニジャパン週刊日本の名車第79号13ページより。 デアゴスティーニジャパン週刊日本の名車第79号13ページより。 『』2013年10月5日放送分より。 著 '90年度版・'96年度版「間違いだらけのクルマ選び」 草思社• リクルート株式会社 2020年1月25日. 2020年1月25日閲覧。 参考文献 [ ]• 『日本のショーカー1 1954〜1969年』() 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - アルバム「」のジャケットに初代・コスモスポーツ後期型が登場。 ブランド()はを参照 日本国内未販売車種 : - -.

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ユーノス コスモ

概要 [ ] 5月に国産車初の搭載車として発売。 (昭和47年)から(昭和50年)までは一時期絶版車となっていたが、同年に復活。 (平成2年)からは同年から展開されたブランドのフラッグシップモデル、 ユーノス・コスモとして登場し、(平成8年)まで発売された。 モデルは全てタイプのボディを持っていたが(3代目のみ4ドアも設定)、その性質は世代によって大きく異なっていた。 また、3代目以外は世代ごとに異なるサブネームをつけて発売されていた。 同時に世界初の実用・量産を搭載した自動車でもあった。 なお、世界で初めて市販されたロータリーエンジン搭載車は、正確には旧が(昭和39年)に発売した車のである。 これに搭載されたエンジンは、ロータリーエンジン特有の多くの課題が未解決のままであり、いわば「見切り発売」であった。 またそれは、シングルローターのエンジンであった。 これに対し、コスモスポーツに搭載されたは、それらの課題を克服して量産に耐えうるものであった。 このため10A型エンジンは、世界初の実用・量産ロータリーエンジンである。 また、10A型エンジンは、多気筒(マルチローター)ロータリーエンジンとしても世界初の市販車用エンジンであった。 ロータリーエンジンの特性は、それまで各種のロータリーピストンエンジン理論において証明されていた。 しかし、100年以上の理論的蓄積にもかかわらずロータリーエンジンは量産されるには至っていなかった。 このため、10A型エンジンの搭載車であるコスモスポーツは、ロータリーエンジンを量産車のエンジンとして最初に搭載した記念すべき存在といえる。 (昭和43年)8月、mazda110Sの名でコスモスポーツを擁してで行われた84時間「マラトン・デ・ラ・ルート」に挑戦した。 このレースは、生産車のスピードと耐久性が競われる文字通りのマラソンレースで、、、、、、、などと激戦を展開した。 結果は、完走を果たすのみならずポルシェ・ランチアに次ぐ総合4位(順位は84時間後の走行距離で決められる)となった。 参加59台中、完走はわずか26台であった。 コスモスポーツに搭載されたは、それ以降、などに搭載された。 10A型エンジンは5つのハウジング(2つの筒と3枚の板)で構成されており、開発目的が量産規模の小さいスポーツカー搭載用であるため、エンジンは0813 13 101cの2台のローターハウジング迄含み全て総であった。 コスモスポーツ以後の量産モデルでは、サイドハウジング(フロント、インターミディエイト、リアの3枚)がに変更されている。 コスモスポーツの10A型エンジンは炭素鋼がされており高価かつ手の込んだものであるのに対し、10A型エンジンより後のエンジンでは、特殊鋳鉄を高周波加工したものが採用され、量産化・低コスト化が図られている。 また、加工法もコスモスポーツの砂型に対し鋳造とされ、大量生産された。 コスモスポーツは、前期型(L10A型)が(昭和42年)に343台販売されたのを皮切りに、(昭和47年)の後期型(L10B型)の最終販売車まで累計1,176台が販売された。 発売までのロータリーエンジン開発経緯は、を参照。 車両の展示はなかったが 、当時の松田恒次社長が自らコスモスポーツの一次試作車「MAZDA 802 L402A 」のステアリングを握り、遠路はるばる広島から自動車ショーの会場に乗りつけて話題をさらった。 また、帰路には各販売会社、の、首相などを訪問したというエピソードも残っている。 なお、初めてコスモスポーツのプロトタイプが一般に公表されたのは、自動車ショーが開催される6日前の1963年10月20日付け朝日新聞紙上 においてであり、これは朝日新聞のスクープであった。 ちなみに、一次試作車は少なくとも二種類存在し、「広 5 そ 32-85」のナンバープレート(1963年8月登録)が取付けられた個体は、前後ウインドウスクリーンのウェザーストリップにメッキモールがなく、ワイパーは平行式の3ブレードで、クォーターピラーのエンブレム取り付け位置は下寄り、カーラジオのアンテナの取付け位置はリアガラスとトランクリッドの間、横長のテールランプは中央に仕切りのある四灯タイプ、という仕様であった。 「広 5 そ 57-35」のナンバープレート(1963年10月登録)が取付けられた個体は、前後ウインドウスクリーンのウェザーストリップにメッキモールが有り、ワイパーは平行式の2ブレードで、クォーターピラーのエンブレム取り付け位置はピラーの中央、カーラジオのアンテナの取付け位置は右リアフェンダー上部、横長のテールランプは中央に仕切りがなく外観上は二灯式に見えるものであった(内部に仕込まれていたランプの数は、32-85車に準じていたと思われる)。 この二台の「MAZDA 802」が、サプライズとして自動車ショーの駐車場に姿を現した。 一次試作車は、自動車ショーが開催されるまでに5台製作されている。 翌(昭和39年)のからに開催された第11回東京モーターショーに、初めて実車()が正式に出展された。 出展時の名称は「MAZDA COSMO」であった。 ショー出展車は二次試作車で、一次試作車とはテール部分の意匠が大幅に異なり、量産車に近いものとなっていた。 また、サイドウインドウに三角窓が追加され、ワイパーは2ブレードの対向式となり、外観上の特徴の一つであるフロントフェンダーのルーバーが、一次試作車の六つ穴メッキ物から細いスリットのメッキ物に変更されていた。 二次試作車までは、ルーフの後部に左右のクォーターピラーまで覆う 白いカバーが取付けられていた ことも、外観上の大きな特徴であった。 二次試作車は複数製作され、ワイパーが平行式2ブレードのもの、ホイールカバーがハーフカバータイプで5穴のホイールが装着されたもの、センターロック式のワイヤースポークホイールが装着されたもの、クォーターピラーの幅が狭いもの、カウルトップの通気口が一次試作車と同様に格子状のもの、フロントフェンダーサイドのエアアウトレットがルーバー状でないもの、ドアのアウターハンドルが長くドアパネルに窪みがないもの、フロントターンシグナルランプのレンズがアンバー色のものなど、様々な仕様が存在した。 (昭和40年)からに開催された、第12回東京モーターショーにもコスモスポーツのプロトタイプが出展された。 出展車の名称はこの年も「MAZDA COSMO」であった。 三次試作車と思われる出展車は、白いルーフカバーが省略されルーフ全面とクォーターピラーが白塗装となり、フルカバータイプのホイールカバーの意匠が少々変更されていた。 また、フロントフェンダーのルーバーがフェンダーパネルに直接スリットをプレス成型した簡素なものとなっていた。 これは、部品点数と製造ラインでの工数を削減しコストを下げるための設計変更とされる。 この時の展示車は 最終生産型と発表され、全国各地のマツダに委託して実用化テストを行う事が公表された(その際、詳細を公表せず)。 「社外委託試験車」と名付けられた試作車は、車体各部の特徴から三次試作車の「MAZDA COSMO」或いは三次試作車の改良型だったと推察される。 社外委託試験は当初、(昭和40年)8月から開始され、貸与される試験車の数は30台の予定であった。 (昭和41年)からに開催された、第13回全日本自動車ショーにも続けてコスモスポーツのプロトタイプが出展された。 出展車の名称は「MAZDA COSMO SPORTS」だった(市販モデルの名称は「MAZDA COSMO SPORT」)。 実用化テストに基づき更なる改良が加えられ、(昭和42年)春発売予定、価格未定とアナウンスされた。 市販までに、社外委託試験は各地のディーラーに貸与された「MAZDA COSMO」47台 により、(昭和41年)1月から12月まで1年の期間を費やして実施され、その間、本社では試作車による10万kmに及ぶ連続耐久テストを含み、総距離300万kmにも達する走行テストが行われた。 車重は940と比較的軽量であった。 エンジン以外の基本レイアウトは、この時代では常識的であったであるが、当時の日本製乗用車としては相当に高度なスペックが奢られていた。 ギアにはクイックな形式を採用している。 は4速フルで、ブレーキは前輪がダンロップ型、後輪はアルフィン・であった。 なおブレーキは前後2系統が独立したタンデムマスターシリンダー式となっており、どちらかが故障した場合に備えた安全性の高いものとなっていた。 ロータリーエンジンは極力低く、そして後方に配され、のちのマツダのともなるフロント・の発想が既に生かされていた。 重量物であるは、前期型ではに置かれ、後期型では助手席後部に設けられたツマミで開閉する蓋付きのケースに収められた。 ボディ [ ] ロータリーエンジン搭載用に専用設計されたボディはセミ方式であった。 ボディは開口部以外には継ぎ目がなく、ハンドメイドのスペシャルカー然としていた。 また、開口部のリッド類は来たるべき高速時代を見越して、全て安全な前(エンジンフードは逆アリゲーター)とされた。 デザインにあたっては革新的なロータリーエンジンにふさわしい、大胆かつ斬新なスタイルが望まれた。 開発当初、当時の社長であるから「売り出すつもりのないイメージカーだ」といわれたからこそ、この思い切ったスタイリングが生まれたともいわれる。 全高は1,165 mm と低かった。 「軽量コンパクトなロータリーエンジンでなければ成しえないデザインを」という、学芸大卒業のマツダ初のデザイナーの意図はその低さに結実し、伸びやかなリア・、ボディー中央を走るラインとあいまって、コスモスポーツの未来的なイメージをさらに強調している。 の低さとエンジンフード(リッド)の小ささは、ロータリーエンジンのコンパクトさを暗示している。 また、を境に上下に分けたも特徴的である。 ただし、全長に比してリアオーバーハングが大きいスタイルのため、運動性の面では不利なものとなり、「スポーツ」の名とは裏腹に、むしろカーとしての性格が強くなった。 内装 [ ] 後期型コスモスポーツの。 () フルパッドのに組み合わされるアルミニウムのインパネは艶消しの黒で統一され、無反射ガラスの7連(左から、、、、、、の順)が整然と並ぶ。 内装は天井も含めて黒ののフルとされ、通気性を考慮し、シート中央のみ白黒の柄のを使用している。 前期型のL10Aは法制化前のため、が無い。 床敷物は真っ赤なで、は自然に手を下ろした位置にあり、腕を大きく動かすこと無く操作できるショートストロークとなっている。 製オート、を上下に作動させるタイプのセミオート・、メーター照度調節、音質切替え(用、用)、2スピード(払拭中にスイッチを切っても停止位置に復帰するタイプ。 高速時の浮き上がりを防止するフィン付き)、さらにマップ・足元(ドア開閉連動)・・トランクの各ランプなども標準で装備されていた。 ドアは二段チェッカーであり、スマートに乗り降りできるように考えられていた。 座席の後ろには手荷物を置くためのスペースが設けられ、固定用ベルトも装備されていた。 リアガラスは非常にの大きなものが用いられ、室内の開放感を高めた。 、および歴代のリアガラスは、このとされる。 助手席側サンバイザー裏面には鏡、足元には、グローブボックス脇にはアシストグリップも装備された。 内装のデザインは、相馬亮一をチーフとする内装チームが担当した。 販売価格 [ ] 価格は148万円で、同時期の性の高い車種で比較すると、の172万円ほどではないが、2000の88万円、2000GT-Bの94万円と比べるとはるかに高価であった。 走行性能 [ ] ロータリーエンジンの走りは、とはまさに異次元の感覚をもたらした。 当時、ほとんどのレシプロエンジン搭載の国産車は4,000 rpmを過ぎたあたりからとが大きくなり、100 を超える高速走行では会話すら困難となり、怒鳴りあうようにしなければならないこともままあった。 しかし、ロータリーエンジンはの7,000 rpmまで静粛かつスムーズに吹けあがった。 誌によるマツダ製ロータリーエンジン車のテスト結果を以下に示す。 コスモスポーツ L10A : 8. カペラロータリークーペGS: 7. 6 km、10月号)• サバンナRX-7リミテッド SA22C : 7. サバンナRX-7 GT-X FC3S : 5. アンフィニRX-7 type R FD3S : 5. 後期型 [ ] コスモスポーツ後期・右側面(マツダミュージアム、2005年3月撮影) (昭和43年)7月には早くも(L10AからL10Bに形式変更)が行われ、の拡大、ブレーキ冷却口の新設、・の拡大、の5速化、前後ブレーキへのハイドロマスター()が装着された。 8秒となった。 マイナーチェンジによって、当時としては高級品であった製のがオプションで装着可能となった。 このヂーゼル機器製クーラーの価格は40万円を超えたという。 ユニットは座席後ろの手荷物スペースに置かれたため、冷風は後方から吹き出す形であった。 コスモスポーツ専用設計のクーラーであったため効きは悪くなかったが、スナッチが発生しにくいロータリーはTOPギアで低速走行が可能であったため、当時の取扱説明書では「クーラ装着車はクーラ作動時、シフトをTOPおよびにし、エンジン回転1,500rpm以下の低回転でノロノロ運転している場合オーバ・ヒート気味になることがありますので、このような場合はシフトを2速か3速にして運転してください。 」(原文)と注意を促している。 また室内のウォッシャー・・ディマー・の4スイッチが、1本のコンビネーション・レバーにまとめられた。 3点式、調整可能なも後期型より装備された。 パーキング(エンジン始動時自動消灯)や非常灯も装備された。 この後期型(L10B)の価格は158万円であった。 なお、車両型式名はL10Bとなり、エンジンの排気量は変わらず型式も10A型のままであったが、や、などの仕様が数回変更された。 その他 [ ] コスモスポーツの発売に合わせ、東洋工業は、1967年の各紙に「世界の注目をあつめてロータリーエンジン搭載車いよいよ登場! 」と題する全面を出した。 その広告は全面であることを生かし、市販量産車としては世界初のエンジンであること、耐久性、革新性、スムーズさ、スタイリング、保証制度、装備、会の告知等を訴えるものであった。 その翌日の、今度はがの全面広告を出しており、当時のトヨタのマツダ・ロータリーに対する対抗意識が垣間見える。 その後、6月6日から11日にかけて、ので、コスモスポーツ発表会が開催された。 コスモスポーツ1号車が出品され、・・試乗会といった内容であった。 松下電器産業(現)創業者のはと親交があり、を評価して、コスモスポーツの顧客第一号となった。 翌(昭和42年)には、 - 間が開通したに、高速として第八方面に配備された。 (昭和46年)の特撮テレビ番組『』にて、防衛チームMATの専用車両「マットビハイクル」として後期型が登場している。 その未来的なフォルムを生かして、大きな改造は無く ほぼ量産車そのままの外観で使用されている。 また、同作のオマージュ要素が強い「」にもNERV官用車として登場している。 APとはアンチポリューション・対策の意味である。 後にマツダが初めて発表したモデルで、コスモスポーツと路線の異なるとなった背景には、市場の要求があった。 このため内装、装備に至っても高級感と豪華さを押し出したものとなり、赤いボディカラーとともに注目を受ける存在となった。 CMキャラクターは。 の『』をCMソングに起用し、同曲は大ヒットを記録した。 コスモAPは、2代目ののを共用化して、マツダのとして、サスペンションや内装や装備を新設計した。 またコスモで新設計したパーツは、他のマツダ車への流用(ルーチェやカペラ等)を考慮して、部品共用化によるコストダウン効果を狙った。 REの12Aとレシプロエンジンは、リミテッド以外のモデルに搭載した。 以降のマツダ車では、このAアーム式のストラットが標準機構となる。 リアは、車軸式ではあるが、板バネからカペラで採用したリンク式に変更され、サスペンションの特性を向上させた。 板バネであれば、後方からの衝突に対して衝撃緩和が可能になるということとコストメリットで採用していたが、操安性を改善させるために変更した。 このうち、レシプロの2000㏄のエンジン(MA型)は、によるを使用したエンジンで、業界初のエンジンとなり、コスモLの発表時に追加した。 1800㏄のVC型は、式の公害対策を行っていたので、徐々にMA型に変更されていった。 のマイナーチェンジでは、異型角形2灯のヘッドランプと格子調のグリル、横長のテールランプへと変更され、雰囲気が一変した。 当時は折からのの影響によって、スポーツモデルが次々と消えていこうとしている時期であり、その中で登場したパワフルなコスモAPは一際目立つ存在となり、発売から半年で2万台を売り上げる大ヒット作となった。 輸出名はロータリーエンジン搭載車が「マツダ・RX-5」、レシプロエンジン搭載車が「マツダ・121」であった。 コスモL [ ] コスモAPから遅れること2年、にバリエーションモデルとして追加された。 最大の特徴は、その名のとおりランドウトップにある。 これも北米市場からの強い要求によるもので、をはじめのおよびなども2種類のバックスタイルのクーペボディをそろえている。 ランドウトップのコスモLはリアシートの頭上高に余裕があり、居住性が良いことと、クオーターウインドウ(オペラウィンドウと呼称していた)が小さく、が守れることで、コスモAPとの性能、装備の違いは無くとも、やや高い年齢層に向けた高級モデルとしての位置づけであった。 1979年マイナーチェンジ。 APと同様に異型角形2灯のヘッドランプと格子調のグリルへと変更。 市場での評価とは別に、内での評価は全く異なるものがあった。 ファストバック車両の場合は、プレスした車体パネルをする際、Cピラーの溶接部分が表に出てしまうので、通常はで表面を埋めてなだらかに仕上げる工程があった。 ランドウトップでは、この工程を省略できたので公害も発生せず、その意味で高い評価を得ることになった。 ボディバリエーションは3種類を揃えたが、それぞれの登場時期は複雑で、まずは9月に2ドア・ハードトップが先行発売され、同年に4ドア・ハードトップ、2週間後のに4ドア・セダンとロータリーエンジン搭載車がそれぞれ時期をずらして発売された。 空力に配慮されたデザインが特徴であり、ハードトップは4灯式のを持つ。 中でも2ドアのCd値は当時としては世界トップクラスの0. 32を記録していた。 12A型ロータリーエンジンは新たに6PI(シックス ピー アイ)と名付けられた、6ポート・インダクションを採用、これは従来1ローターあたりプライマリーポート、セカンダリーポートと吸気ポートを2つ(2段階)設けていたものを、新たにセカンダリーポートをメインポートと排圧で開閉する補助ポートとに分割し、1ローター毎3ポート(3段階)、2ローターで計6ポートとしていた。 これにより回転数や負荷に見合った吸気タイミングの最適化を図り、燃費や出力の向上を謳っていた。 10月、ロータリー・ターボ車を発売(ルーチェとともに世界初)。 「全域・全速ターボ」と名付けられたこのエンジンは、1982年当時の国産車の中ではトップクラスの性能を誇り、1980年代に行われる高性能戦争へ先鞭をつけた。 インテリアでは、ながら面積変化で情報を伝える、サテライトスイッチの影響が見られるメーターナセル両端に配した、灯火類、などのスイッチ、()を見せるデザインの正立型を採用した(と共同開発)、シートバックの中折れ機構などに特徴がある。 自動車ジャーナリストのは、1982年9月にコスモ・ロータリー・ターボを自動車ジャーナリスト3人で(現・)のにおいて、谷田部24時間耐久テストを行った。 高速耐久トライアルとしてはによるものが有名であるが、6時間時点での2000GTの新国際記録210. 10月、マイナーチェンジ。 個性的なデザインからかルーチェともども販売が芳しくなく、4ドア・ハードトップのフロントマスクを一般的な固定式ヘッドライトへと変更した。 同時に4ドア系にロータリー・スーパーインジェクション SI 車を設定する。 なお、2ドア・ハードトップは従来のリトラクタブル・ヘッドライトを継承した。 9月、2ドア・ハードトップをマイナーチェンジ。 「GT」以外の改良を行い、4ドア同様の固定式ヘッドライトに替えられる。 5月、モデル末期のグレード整理とテコ入れとして、レシプロエンジン車に「ジェンティール」シリーズを投入。 1990年4月のユーノスコスモ登場まで継続生産する。 10月、ボディーカラー一部差し替え 4月、ユーノスコスモの登場により、2代目の生産終了。 キャッチコピーは『 クーペ・ダイナミズム』。 ボディは2ドアクーペのみ。 当時、マツダは販売チャンネルの拡大戦略を図っており(マツダ、ユーノス、、、)、この車はユーノスブランドのであった。 同社では初代コスモスポーツ以来のロータリーエンジン専用車であり、エンジンにはと、市販車では世界初となる3ローターの20B-REW型の2種が設定された。 この車に使用されたユーノスのエンブレムはコスモスポーツのようなローターを象ったものである。 耳目を集めた世界で初めての「CCS」と呼ばれる(と共同開発)を20Bエンジン搭載車に標準装備した。 また、高級クーペらしく内装にも相応のこだわりがあり、イタリアで誂えたウッドパネルをインパネに装着、しかし全面に貼るようなことはせず、効果的に配して品よくまとめられていた。 さらに、フルオートエアコンの操作はカーナビディスプレイを兼ねるでのみ操作が可能という当時としては画期的な方式で、以降各社でも高級車を中心に普及することとなった。 カーナビが標準装備されない場合は液晶付きフルオートエアコン操作パネルが付く。 いずれも、これは日本車としては初の採用であった。 グレードはTYPE-ECCS・TYPE-E・TYPE-S(前期・中期型)・TYPE-SX(後期型のみ)。 はを採用している。 マツダエンジニアの夢であった「 V型12気筒エンジン並の滑らかさを持つ」と言われる3ローターエンジンである20Bエンジンは非常に高出力で、当初333馬力で設計されていたが、当時のの行政指導により(後にRX-7用2ローター13B-REWも280馬力を達成する)に収めることが必要となり、デチューンのうえ市販された。 ターボへの排圧を低くし最高出力を抑えるため13Bに比べ排気ポートが変更されている。 20Bのローターとローターハウジングは13Bと同寸で、も3ローター車は3,500 cc以下区分に該当する。 その高燃費ぶりは、の時代ですら、買うことをためらわせるに十分な要因であった。 シーケンシャルツインターボは、RX-7(FD3S型)に搭載されているそれとは相違し、プライマリー側とセカンダリー側で異なったサイズのタービンが採用された。 20B-REW搭載車のマフラーは高回転域で経路が変更される可変排気機能が採用されており、4本のマフラーが回転により開口ポート数が変化した。 外観では13B-REW搭載車のテールパイプが2本出しであるのに対し、20B-REW搭載車のそれは4本出しとなっており、容易に区別が付く。 ターボ過給された3ローターエンジンの大パワー(高トルクと高回転)に耐えられる乗用車向けMT用クラッチが当時は開発されていなかったため、当時のスポーティーカーとしては異例となる全グレード車のみの設定となった。 また、AT向け多段式変速機も存在していなかったため、全車4速ATのみであった。 (平成3年)には、ハードサスペンションやのホイールを装着した特別仕様車、TYPE-SXが登場した。 開発当初はの装備が企画されており、液晶を用いた先進的な透過率可変式が予定されていた。 生産車にも専用回路が存在していたが、ノイズ処理や耐久性などの問題をクリアできておらず、販売の低迷でコスモ自体の採算が見込めなくなったため断念された。 8月 、生産終了。 在庫対応分のみの販売となる。 6月、在庫対応分がすべて完売し販売終了。 コスモの車名は初代と2代目の間に挟まれた生産停止期間を含めて29年の歴史に終止符を打った。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• モーターマガジン '63年12月号 P28及びP87• 月刊自動車 '63年12月号 P50• 日本のショーカー1 1954〜1969年 P. 毎日グラフ '65年5月1日号 P88• 日本のショーカー1 1954〜1969年 P. Nostalgic Hero Vol,38 1993年8月号 P62• 2017年5月30日. 2017年6月11日閲覧。 デアゴスティーニジャパン週刊日本の名車第79号13ページより。 デアゴスティーニジャパン週刊日本の名車第79号13ページより。 『』2013年10月5日放送分より。 著 '90年度版・'96年度版「間違いだらけのクルマ選び」 草思社• リクルート株式会社 2020年1月25日. 2020年1月25日閲覧。 参考文献 [ ]• 『日本のショーカー1 1954〜1969年』() 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - アルバム「」のジャケットに初代・コスモスポーツ後期型が登場。 ブランド()はを参照 日本国内未販売車種 : - -.

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