ミッドサマー 鶏小屋。 ミッドサマーのレビュー・感想・評価

映画『ミッドサマー』ネタバレあらすじ結末|映画ウォッチ

ミッドサマー 鶏小屋

映画『ミッドサマー』観てきました。 私はミステリー、オカルト、ホラーは好きだがびっくりさせられるのとグロは無理という人間で、気になってはいたものの観に行くかずっと迷い続けていたのですが、あれこれ事前知識をれて準備し、最悪途中退席しようと腹をくくって観てきました。 感想としては、まったく怖くなかった。 それと同時に、実際に観てみて、この作品を「怖い」という人と「怖くない」という人、「不快」という人と「爽快」と評する人、評価が真逆に分かれる理由もなんとなくわかりました。 作中の伏線やメタファー、についてはすでに超詳しく解析している先人がいるので置いておいて、私と同じように気になっているけど観るのが怖い人に向けて、『ミッドサマー』がなぜ怖くてなぜ怖くないのかについて書いてみます。 ネタバレゴリゴリありなのでご注意ください。 ストーリー(完全ネタバレ) (普通に最初から最後まで書いたらめっちゃ長くなってしまった。 映画鑑賞済みの方は飛ばしてください) 主人公はカの女子大生・ダニー。 精神に危うい妹がおり、そのせいでダニー自身も不安定で、などを服用している。 恋人のクリスチャンにも依存気味だが、クリスチャンの友人達はそんなダニーをよく思っておらず、別れるよう勧めている。 そんな折、ダニーの妹が両親を巻き込んだ無理心中を決行。 ダニーは家族を失い、失意のに叩き落される。 友人たちと一緒にへ旅行する予定だったクリスチャンは、止むを得ずダニーを旅行に誘う。 こうして、ダニーとクリスチャンと、その友人ペレ、ジョシュ、マークの5人は、ペレの故郷であるのホルガ村へと向かう。 ホルガ村は自然に囲まれた僻地の村。 白夜を迎えていることもあり、予告映像でも見られる通り、一日中明るい青空と草木の緑が広がり、花が咲き乱れる景色がとにかく美しい。 村民は一つの家族として過ごしており、大きな建物の中で一緒に寝起きしたりする。 90年に一度のの祝祭が行われる時期で、それが旅行の目的の一つでもあった。 ミッドサマーの独特の儀式に困惑しつつも、興味深くそれらを体験するダニー達。 村人とともに崖の下に集められ、何が起こるのだろうと待っていると、村の老人2人が崖の上に現れる。 目を凝らしている彼らの目の前で。 2人は相次いで、崖から身を投げた。 ドッ、という音。 顔の肉が抉れ、断面を露わにする、老女だった死体。 ダニー達は声も出ないが、村人達は即死した彼女に向けて賞賛の拍手を送る。 足が潰れたものの、死に切れなかったもう一人の方に杵を持った村人が近づき、その顔面に振り下ろす。 高齢の村人が新たに生まれる命のために自分の命を与える。 輪廻転生の考えを持つホルガ村の、ミッドサマーの儀式のいち工程だったのです。 もうひと組の旅行者のサイモン&コニーの婚約者ルは恐慌状態に陥り、村人を非難しながら出て行こうとする。 ダニー達もショックを隠しきれないが、ペレに宥められて村に残ることに。 その後も、数日かけてミッドサマーの儀式は進んでいく。 先の投身自殺のような出来事は起こらないものの、神聖な木に立小便をしたマーク、を盗撮しようとしたジョシュが相次いで姿を消すなど、不穏さが常に立ち込め、外部から来て残っているのはダニーとクリスチャンのみになる。 そのクリスチャンも村の娘・マヤに見初められ、隠毛入りの食事(!)を食べさせられたりする。 そんな中、メイクイーンを決めるダンスでダニーが優勝し、女王に。 ダニーが女王の儀式をしている間、クリスチャンはお膳立てされたマヤとの性交に誘われる。 このセックスシーンが、この異様な作品の中でも強烈。 事前に強力な精力剤のようなものを飲まされたクリスチャンは、半ば朦朧とした状態でとある建物に連れて行かれる。 そこには、花に囲まれ全裸で横たわって待ち構えるマヤと、それを囲うように数名の女性が全裸で肩を組んで立っている。 マヤに呼応するように声を上げる女性達に見守られながら腰を振り続けるクリスチャン。 字面だけでもヤバい。 でもここまでくると怖いを通り越して滑稽でウケる。 しかも、ダニーはその様子を目撃してしまう。 役目を終え、正気に戻ったクリスチャンは建物を飛び出し、鶏小屋に逃げ込む。 だが、そこで見つけたのは、背中の皮を開かれ、オブジェのように花で飾られた死体。 村から去ったはずのサイモンだった。 そしてクライマックス。 メイクイーンとなったダニーの前で、村の長らしき男が語り出す。 ミッドサマーには9人の生贄が必要なこと。 うち4人は外部の人間、もう4人は村人から、そして最後の一人はクイーンが決めるのだと。 外部の4人と村人の二人はすでに命を捧げている、というセリフで、マーク、ジョシュ、サイモン、コニーがすでに殺されていることがわかる。 そして村人からは、投身自殺した二人に加え、自ら志願したという二人が進みでる。 最後に、くじで選ばれた村人一人とクリスチャンが並べられ、ダニーはどちらかを選ぶよう迫られる。 ラストシーン、入ってはいけないと言われていた神殿の扉が開かれ、そこに並べられていく、死んだ生贄6人の皮を被った人形と、志願した二人、中央に置かれるのは、ダニーに選ばれ、「悪しき獣」の象徴として熊の皮を被せられたクリスチャン。 準備が整った神殿には火を放たれ、生きた生贄もろともすべてが焼かれていく。 * 待って。 これで記事1本分くらいある。 ここからようやく、ミッドサマーが怖いのか怖くないのかについて考えます。 『ミッドサマー』はなぜ怖いのか まず、普通に『ミッドサマー』の怖い部分について。 と言っても、映画を観た方やあらすじを読んだ方には説明するまでもなく、この作品には残酷なシーンも精神的にきついシーンがたくさんあります。 冒頭のダニーの家族の心中シーンもショッキングだし、投身自殺や背中を開かれたサイモン、クリスチャンたちが生きたまま焼かれるラストシーンはグロい。 隠毛を食べさせたり異様なセックスシーンなどの歪んだ性的表現はキモい。 こういうわかりやすい怖さ、グロさ、キモさを画的に見ていられないという人はその時点で無理だと思う。 この映画はそれに加え、音、映像テクニックでも存分に揺さぶってくる。 例えば、映像。 ダニー達が車でホルガ村に向かうシーン。 車が走る様子を映していたカメラが、車の移動に合わせてだんだんと向きを変え、村に入るシーンでは天地逆になる(監督の前作『ヘレディタリー』でもやってるらしい)。 他にも、ダニーが家のトイレに入るシーンで、ドアから切り替えて飛行機の機内のトイレになっていたりとか、クリスチャンが目を閉じて画面が暗くなり、目を開けるとダニー視点になっていたり。 ワンカット風に見せながらシーンを区切る手法で、こちらが前提にしているものをひっくり返してくる。 その他にも、幻覚作用のある「マッシュルーム」やら怪しげなものを摂取するシーンがちょこちょこあるのだけど、その効能か画面が歪んだり、花が呼吸しているように動いたり、手足に草が生えてきたりと、今見ているものが現実なのか幻覚なのかわからなくさせて、「酔わせて」くる。 そして、音。 『ミッドサマー』では、BGMとして弦楽器が多用されている。 それはダニーの不安や恐怖に共鳴するように鳴らされることが多く、慟哭のような嘆きのような、人の声ではないかと思うほどほど感情の乗った音となり、観ている側はダニーの不安定な感情に取り込まれていく。 楽器だけでなくうめき声も画面外ょっちゅう流れ続けている。 そして、それが結局誰の、なんの声なのか、現実に響いている音なのかさえ明かされないまま進行していく。 こんな風に、ストーリーや出来事以外の部分で、現実と妄想の間に放り込まれ、容赦なくシェイクされ、答えのない不快感や不安を抱え続けたまま観続ける羽目になる。 それが『ミッドサマー』。 これらの要素に入り込みすぎるタイプの人はトラウマになるし、『ミッドサマー』を怖い映画だと評するのではないかと思います。 『ミッドサマー』はなぜ怖くないのか 『ミッドサマー』は怖い、という話をした直後に手のひらを返して、今度は『ミッドサマー』は怖くない、という話をします。 怖くない理由の一つはカメラワーク。 ホラー映画のほとんどはショッキングな映像をいきなり!切り替えて!目の前に!見せることで恐怖を与えてくる。 観てる人を驚かせて声を上げさせる。 「動」の恐怖ですよね。 しかし、ミッドサマーではそれを絶対にしない。 代わりにロングテイクが多用されています。 例えば、冒頭のダニーの家族の心中シーン。 シューシューという音とサイレンのような音を背後に、カメラは家の中をゆっくり進んでいき、目張りされた両親の寝室へ。 消防士の手によってドアが開けられると、ベッドの上には目を閉じる夫婦の姿。 けれど彼らが寝ているわけではないこと、シューシューいう音がガス漏れの音であることを、この一つのカットを観ているうちに観客自ら気づかされるわけです。 サイモンの死体を見つけるところもそう。 クリスチャンの視線に合わせるようにゆっくりとカメラが動く。 急に死体をバン!と出されることはない。 なんなら早い段階でクリスチャンの死体は画面端に映り込んでいる。 最初は何かわからない。 でも、だんだんとそれがおぞましく飾られた死体であることに気づく。 「見せない」ことさえある。 ダニーがクリスチャンとマヤのセックスを目撃する時も、映像になっているのは、壁の穴越しに目を見開くだけ。 でも既にあの狂ったセックスシーンを観てる我々は「アレを見ちゃったのねダニー…」ということが否応なくわかってしまう。 驚かされて知らされるのではなく、自ら気づかされる。 『ミッドサマー』は全編通してそういうつくりになっています。 最初に『ミッドサマー』は怖くない、と書きましたが、厳密に言えば「怖がらせてもくれない」が正しいかもしれない。 いわゆるホラー映画のセオリーを使わないんです。 登っていくジェットコースターに乗せられて、もうすぐ落ちるぞという予感はあるのに、絶対に落とされない。 その緊張感だけを絶え間なく与えられ続ける。 『ミッドサマー』がホラー映画ではない、「怖い」ではなく「嫌な気持ちになる」、と言われる大きな所以はここにあるのではないかと思います。 もう一つ、個人的に『ミッドサマー』が怖くないと思ったのは、「ルールが明瞭」ということです。 幽霊とか呪いとかゾンビとか、ホラー映画お得意の題材って、基本的に非科学的です。 罰当たりなことをしたとかの「発生のきっかけ」みたいなものはあるかもしれないけど、そのメズムは不明。 いつ、なぜ、なにに襲われたり殺されたりするかわからないまま、登場人物は逃げ惑うしかない。 ルールがない。 ゆえに理不尽です。 ところが、『ミッドサマー』ってすべてが明瞭なんですね。 例えば最初の投身自殺。 もちろんグロいし痛そうだし「止めなよ」って感じなのですが、それはあくまで外から来たダニーたちの発想。 ホルガ村住人からすれば、長い年月続いてきた当たり前の風習なわけです。 なんなら、新しいものに自分の命を与えるという幸福でさえある。 マヤとクリスチャンの儀式めいたセックスも、村人の絶対数の少ないホルガ村においては、意図せぬ近親相姦の発生を避けるためにも、外部の血を定期的に入れて存続するためにも、村全体で性行為を管理するのは必要なことだったのだと思います(とはいえこの儀式のやり方は意味わかんなすぎるので監督のなんらかの癖を感じてしまうけれども。。。 外から来た人間が知らないだけで、ホルガ村にはずっと続く「ルール」があり、村民たちはすべてそれに則って行動しているだけなんです。 文化圏がめちゃめちゃ遠い国の法律と同じことです。 彼らの行為に、説明なオカルトや無秩序は一つもない。 ただ私たちが理解できないだけ。 そして、そういう「異界」に自ら足を踏み入れてきたのはダニーたちのほう。 神聖な木に小便をかけたマークや聖殿に侵入したジョシュは、一見、罰として殺されたようですが、それすらも違うんじゃないかと私は思います。 なぜなら、「外部からの生贄」は「4人」必要だったから。 祝祭の時に村にいた外の人間は、ダニーを含めて6人。 彼らのうちの3分の2が生贄になることは最初から決まっていたわけです。 そして、最後の生贄となる選択肢の片割れとしてもう一人で、5人。 ダニーがこの旅行に来たのはやむを得ずクリスチャンが誘ったからで、最初の頭数にはなかった。 そう考えると、ホルガ村へ来ることを決めた時点で、ほぼすべての人間は何らかの形で祝祭に組み込まれていたわけです。 4人、ないし5人の生贄が必要な儀式に5人の人間が用意され、手順通り生贄になった。 この話ってただそれだけなんです。 めちゃめちゃ明瞭なんです。 不思議なことも、理不尽なこともないんです。 だから「怖い」とは言い難い。 ただただ嫌な気持ちになるだけ。 そして、その嫌な気持ちも、映像に押し付けられたものではなく、観る人が想像し、勝手に気づく、という構造になっている。 そういう他へのぶつけようのなさも、鑑賞後の不快感に結びついていくのではないでしょうか。 でも伏線やメタファーが無数にあって考察し甲斐があるし、文章では表現しきれない音&カメラワーク&映像美こそがこの作品の妙だと思うので、「これなら観られるかも」と思った人は映画館で体験してみてください。 無理だなと思った人はやめとこう。 erio0129.

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【ミッドサマー】イラストとネタバレ感想と考察

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皆さまからの反響やご意見を踏まえ、全面的に内容を修正/補足いたしました。 もはや私個人のnoteというよりは皆さまと加筆修正していったような形です。 監督の手のひらで踊らされてる感半端ないですが、この際気の済むまで踊ってやろうと思います。 反響はありがたく受け止め、その意味で最初の主張も修正しつつ残していますが、それ以外は 自分の意見にこだわらずあらゆる観点を集約する場所とします。 疑問が残っている点も書いておきますので、是非ご意見ください。 つたない文章を読み、ご意見くださった皆さまに感謝申し上げます。 ) 映画好き界隈で2月21日の公開直後から話題になっていた「ミッドサマー」を観に行ってきました。 なるほど確かに面白かったのですが、色々な反応を見ていて この映画、「ヤバすぎ!」みたいなポップな消費をすると危険なのでは? と思いはじめました。 筆者自身もホルガ村の思想ややり口は相容れず、異常さを感じた点もありますが、だからといって思考を経ずに ホルガが内包するすべてを「ヤバい」で片づけてしまうと見逃す部分があると思います。 考えることが大切です。 当初「ホルガ村は『ヤバい』のか」という攻撃的なタイトルで記事を出していたため、反語的に「いや、ヤバくないですよ!」という擁護的な内容の記事に聞こえたかと思います。 これは完全に筆者の思慮不足でした。 筆者はどちらかというとヤバいと思っています。 (あれ?)ただ筆者自身が「ヤバい」と感じた部分はあまり知識がなく、偏見が混ざっていそうで安易に言及できないと思ったので、noteでは筆者自身の知見で 「ここに関してはヤバくない」と言える部分を抽出して掘り下げることで、最終的にこの映画の 「ポップな消費」を防ぎたい、更に映画を通して、 ホルガは一旦置いといて、そもそも他者の領域に踏み込むとはどういうことなのか今一度考えよう(自戒)というのがその実でした。 筆者に言われるまでもなくホルガのどこがヤバいのかを思考し言語化されている方には何の面白みもないどころか、書きぶりが悪く当然反論の出るnoteだったと思います。 議論を生んでしまい申し訳ないです。 美しい花々が咲き乱れ、太陽が沈まないその村は、優しい住人が陽気に歌い踊る楽園のように思えた。 しかし、次第に不穏な空気が漂い始め、ダニーの心はかき乱されていく。 妄想、トラウマ、不安、恐怖……それは想像を絶する悪夢の始まりだった。 ホルガの構成要素としては大雑把に以下の図式で考えていったんじゃないかと思います。 ) 筆者は土着信仰的な部分自体は別にヤバくないと思っています。 ただ描写が結構ショッキングだったので、無理!となってしまった方も多いように拝見しました。 以下わかりやすかったシーンを列挙します。 ・生命のサイクルとか言って 公開飛び降り自殺する老夫婦 ・死にきれなかったおじいさんの 顔面に下される鉄槌 ・意図的な 近親相姦で生まれた奇形児 ・好きな男の食べ物に 陰毛を仕込む処女(飲み物にはおそらく 経血) ・長老に指定された男女による 催眠トリップセックス(コミカル) ・とんでもない殺され方をした外部の人間やコミューンからの生贄、 クリスチャン扮する熊さん人形を入れた神殿に放火しみんなで大興奮 ざっとこんなかんじですね。 「理解できない!」「狂気じみていて怖い!」 と思った人も多いと思います。 未知への恐怖です。 同時に軽蔑も含まれているかもしれません。 一方で、「こういう伝統的な奇習にそそられる」という人も一定数いたと思います。 これは未知への興味ですね。 作中での土着信仰の描写に対して鑑賞者が感じたであろうこれらの感情を、映画の内容を反芻しつつ整理していきます。 ・老夫婦の自殺シーンで 恐怖と軽蔑をあらわにしたコニーとサイモン ・ 恐怖を感じながらも、その文化に 興味を持ち踏み込もうとしたジョシュやクリスチャン ・その 文化全てを軽蔑し馬鹿にしていたマーク ただし主人公のダニーだけは、感情を共有するコミューンで過ごすうちに己の孤独が癒されていきました。 (それが本当の幸せなのかは置いておきます) ダニー以外の登場人物は、ホルガ村の土着信仰的な風習(風習です。 念のため)を恐怖/軽蔑/面白がっており、言動にもそれが出ていました。 そして殺されちゃいました。 まあ話の展開としては当たり前なのですが、示唆的な点ではあると思います。 若干飛躍しますが、この 「未開の土地のヤバい風習に自分から足を踏み入れて、むやみに面白がったり軽蔑したりして、死んだ」という単純明快な筋書きはそのまま、 「ヤバい映画があると聞いて興味本位で観に行って、ヤバかった!カルト!!と騒いでる私たち(死んでないけど)」にも当てはめられると思うのです。 この死んでないというところがミソで、鑑賞者の私たちは実際の影響を受けずに済んでるわけですから、双方に立って考えてみると得られるものが多いと思います。 傍観者の特権です。 殺された彼らの反応は妥当だったのか、どういった背景でそのような反応になったのか考えてみましょう。 前述した「ショッキングなシーン」を、ふざけた文章ではなく学術的な感じで要素に分解してみました。 ・死を再生や輪廻の象徴として尊ぶ死生観 ・近親相姦の風習 ・奇形児を神聖で無垢なものとする考え方 ・処女の穢れを選ばれた男が共有する風習 ・選ばれた男女による監視下での処女喪失 ・人柱、供物を捧げる儀式 筆者の大学時代の専攻は美術史学だったのでそこまで詳しくないのですが、 これらの風習それ自体は「結構どこでも行われていた」というのは想像に難くないですね。 性の神聖視とかは土着信仰ではつきものですね。 ちなみに中世西洋の史料のうち筆者が見た中で最強だったのは、 チンチン型の乗り物に乗っているチンチン型の人間が持っているカゴの中に大量のチンチンが入っているというふざけているとしか思えない図像です。 さすがに笑いました。 でも、やはり当時の人は大真面目に描いていたらしいです。 このように、現代人が「きちゃない…」と思ってしまうものが実は聖なるものだった~なんて、ザラですよね。 さて、スウェーデンの土着信仰について考えてみましょう。 キリスト教以前のスウェーデンには古ゲルマン文化が根付いていました。 そこでは死や性や血肉のような、いわゆる「穢れ」の概念は 「人間が手を出してはいけない深遠な世界」(大宇宙=マクロコスモス)として神聖視されていました。 中世以降、ゲルマン民族は順次キリスト教へ改宗していったわけですが、 北欧の改宗は他地域より数百年単位で遅れていました。 要因の一つには 土着信仰の力が強かったことが挙げられるようです。 このような事情を考慮すれば、 そもそも風習それ自体はそんなにおかしくうえに、スウェーデン奥地にホルガのような村が残り続けていた、あるいはキリスト教への改宗に反抗した人々で団結してコミューンを結成した、という設定でもそれほど変じゃないと思います。 中略 改宗にかなりの 時間を要した理由とは、 北欧古来の宗教に秘められていた力が、代々継承されてきた祭祀、つまり一年の歩みや生命の豊饒さや収穫と不可分に結び付いた祭祀形態の中に宿っていた ことであろう。 上層階級に対する改宗はほぼ順調に行ったが、 この新しく強力な唯一神 筆者注:キリスト教 が社会に根付く過程で、それまでヴァイキングの現世生活の要求と存在を確かなものとし、あ らゆる時代の経験を備えた 古来の宗教の風俗習慣が侵害されようとしたとき、初めて事態は深刻となった。 () 筆者は、ジョシュやクリスチャンを始め、 犠牲になった人々のホルガの風習に対する反応は、理解はするが最悪だったと思っています。 クリスチャンやジョシュが抱いていたヤバい!面白い!や、サイモンたちの理解できない!という感情がどこから来るのかと言うと、悪い見方をすれば「 エスノセントリズム」や、ヴェルナー・ダンケルト氏が提唱する「 前文化の否定」の影響があるかと思います。 「エスノセントリズム」とは、自己の民族の文化や価値観を基準に他民族を評価し、見下す倫理的態度のことで、「 自民族中心主義」などと訳されます。 これは分かりやすいですね。 そして「前文化の否定」とは、 ある文化がそれ以前の文化を駆逐する際に、前文化の神々や風習をタブー視することで、前文化では畏怖の対象だったものが徐々に蔑視の対象になっていく現象のことを指します。 ちょっと説明的になりましたが、前述の例でいえば、キリスト教がゲルマン文化を駆逐する際に マクロコスモスをタブー視したことで、それ以降の中世ヨーロッパではそれまで神聖視されていた死や性が汚いものになっていったんですね。 ハロウィンが代表的ですね。 カトリックはその寛容さゆえに自己矛盾を抱えることになり、これが16世紀の宗教改革やカトリック改革へつながります。 気になる人はエラスムスやルターで調べてみましょう。 また犠牲者男性の名前からも、監督がキリスト教とゲルマン民族の対比を暗喩していることは明らかだと思います。 ・クリスチャン=キリスト教徒(Christian の総称 ・ジョシュ=イエス・キリストの本名ヨシュア(英名:ジョシュ) ・サイモン=12使徒で初代ローマ教皇ペテロの別名(シモン・ペトロ) ・マーク=福音記者マルコ(英名:マーク) キリスト教系の名前が多いのは不思議ではありませんが、クリスチャンとジョシュはちょっとあからさまです。 」ちなみにここでいう後悔とは新約聖書にあるエピソードのこと。 ペテロがキリストのことを「知らない」と否認してしまったことへの後悔です。 話は戻りますが、筆者の大学時代の文化人類学の教授は、「 フィールドワークの際は、 郷に入りては郷に従うが鉄則。 神聖な空間に入れていただいている。 研究対象の民族に自分たちの価値観や研究の意義を押し付けたり、相手のタブーを冒すと下手したら殺される。 」と言ってました。 実際その教授は、 近親相姦がタブーであるアフリカ奥地の民族に、うっかり日本では従兄弟同士が結婚できることを話してしまい、村長激怒、村八分状態になったことがあるそうです。 「近親」の定義がズレてる可能性を考慮できなかったそうで。 筆者は色々な方のご意見を見る中で、ホルガの場合の「民族のタブーを破ったから殺す」という理論は外部から生贄を得るための口実に過ぎないのではないかと今では考えていますが、そもそも ホルガに関わらず「民族のタブーを破ったから殺す」という構造自体は野蛮とか原始的だと言って切り捨てていいものではないとも思っています。 日本でも法を破れば程度によっては死刑になるわけですから。 とにもかくにも、「前文化の否定」という現象があるということを知っておくと、土着信仰に生理的な嫌悪感を抱くことを、少し客観的にみられると思います。 誤解のないよう何度も書きますが、 ホルガ=ヤバいは否定しませんし生理的な嫌悪感を抱くこと自体は普通だと思いますが、それが土着信仰=ヤバいにつながってしまうと危険だと思いますよ、という話です。 異文化を表層理解してコンテンツ化してしまうのです。 一見親和しているようですが、根っこには無意識な優越感があり、興味本位で相手の文化に侵入し、文化差を優劣で強調してしまっているのです。 現象だと理解してるので否定はしないし私自身も声出して笑ったんですけど、 ミッドサマーのTRICKパロディの流行にもある種似た感性を感じます。 気をつけましょう。 オリエンタリズムというのは、西洋文化圏から見て対立する東洋のイメージの祭り上げで、簡単に言うと「異国情緒」なのだけど、西洋視点で持ち上げている文物がだいたい現地人には屈辱的な変形がなされることが多いので、現代ではオリエンタリズムは概ね差別的表現とみなされる。 — 後藤寿庵 juangotoh これは歴史学や美術を学問としてかじっていた人間の傲慢かもしれませんが、「変わっててヤバいから好き」という感覚は、おかしくはありませんが、その中に他者を見下す感情があるかもしれないということを認識しておくのは大事なことではないかと思っています。 まあ筆者自身も 金属バットのネタみて笑ったり、「ロック・ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」「デス・プルーフ」みたいな虫ケラみたいに人が死ぬ映画見て大爆笑したりしているので、わりとブーメランなんですけど、ジョークやブラックユーモアを楽しめる幅も大事ですが、そんな自分が正しいと思わないことも大切かな~と思います。 というか、別に学問をかじっていなくても、 興味本位で「ジョーカー」や「帰ってきたヒトラー」や「エレファント」を観て、見事に打ちのめされた経験のある人ならなんとなく感覚として分かると思います。 理解できない他者を、理解できないからと簡単に面白がったり軽蔑したりしていると痛い目に遭うということを。 「ジョーカー」の空前のブームを受けて、自己責任論が根深いと思っていた日本でこんな映画が流行るのか…と感慨深かったのですが(もちろんジョーカーの行為が正当化されるわけではありません)、一方で「ミッドサマー」がサブカル界隈に「ヤバい」という理由で流行っている 気がする ことや、アッテストゥパンや最後のダンスのようなホルガ村の風習を異常性の象徴、狂気、というように書かれているのを見ると、少し悲しい気持ちになるのです。 勿論そういう映画なのかもしれませんが、映画手法としての理解や自分自身の感情とは別に、 正常・異常の区別の難しさを認識することは、民俗文化の捉え方としてとても大事なことだと思います。 肯定も否定も安易に出来るものではないと思うのです。 無論、興味の入り口が「変わっててヤバそうだから」という理由でも、考えるうちに 「なぜ変わっていると感じるのか」「このような風習に至る背景はなんだったのか」という、史学の真髄のような問い、「他者理解」の問いに変わればとてもいいと思います。 そうすると、実在する/実在した土着信仰や民族やそこで行われる習俗は、各々それなりの必然的な事情や背景があることがなんとなく見えてきます。 勿論その民族自体が差別的だったり不寛容だったりすることも多くそこが皮肉ですが、それでも、他の文化に興味を持って知りたいと思っているのなら、対象に対する敬意(全面肯定という意味ではありません)を持ち、ただ表面的な知識を蓄えるだけでなく、その背景まで調べてみることが大切だと思います。 もし「ミッドサマー」をみて文化人類学に興味が出たという方がいれば、できれば 「ヤバい風習図鑑」みたいなエスノセントリズムが押し出たテイストの本だけでなく、ちゃんとした学術書・入門書も手に取ってほしいな、と思うのです。 筆者含め、 サブカル好きな傾向にある人は、犯罪心理学とか象徴主義とか文化人類学とか宗教学とか、安易に興味あるとか言いがちで、その道の人に怒られることが多々ありますので、一緒に気を付けましょうね。 これは平たく言うと「価値観の違いを認めよう!」みたいな道徳の授業でお馴染みの教訓ですが、歴史的背景や先例を知っておかないと腑に落ちないのではと思っています。 筆者自身が美術史やブリューゲルに出会うまで頭ではわかっていたけどどこか綺麗事だと思っていた概念ですから。 ここまで言っといて、 あとは自力で頑張れ!じゃ!というのもあれなんで、 「ミッドサマー」を見て「文化人類学、面白そう…」と思った人に美術史寄りですがおすすめの本をピックアップします。 そして あわよくば美術史沼へお越しください。 文化人類学者の蔵持先生が、ブリューゲルの油彩画《謝肉祭と四旬節の喧嘩》にみられる「祝祭」の描写から読み取れる当時の民衆文化や思想、土着文化とキリスト教、社会経済などについて考察されています。

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映画『ミッドサマー』ネタバレ感想と考察。結末でアリアスター監督が描く“残忍で破滅的なおとぎ話”とは

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映画『ミッドサマー』観てきました。 私はミステリー、オカルト、ホラーは好きだがびっくりさせられるのとグロは無理という人間で、気になってはいたものの観に行くかずっと迷い続けていたのですが、あれこれ事前知識をれて準備し、最悪途中退席しようと腹をくくって観てきました。 感想としては、まったく怖くなかった。 それと同時に、実際に観てみて、この作品を「怖い」という人と「怖くない」という人、「不快」という人と「爽快」と評する人、評価が真逆に分かれる理由もなんとなくわかりました。 作中の伏線やメタファー、についてはすでに超詳しく解析している先人がいるので置いておいて、私と同じように気になっているけど観るのが怖い人に向けて、『ミッドサマー』がなぜ怖くてなぜ怖くないのかについて書いてみます。 ネタバレゴリゴリありなのでご注意ください。 ストーリー(完全ネタバレ) (普通に最初から最後まで書いたらめっちゃ長くなってしまった。 映画鑑賞済みの方は飛ばしてください) 主人公はカの女子大生・ダニー。 精神に危うい妹がおり、そのせいでダニー自身も不安定で、などを服用している。 恋人のクリスチャンにも依存気味だが、クリスチャンの友人達はそんなダニーをよく思っておらず、別れるよう勧めている。 そんな折、ダニーの妹が両親を巻き込んだ無理心中を決行。 ダニーは家族を失い、失意のに叩き落される。 友人たちと一緒にへ旅行する予定だったクリスチャンは、止むを得ずダニーを旅行に誘う。 こうして、ダニーとクリスチャンと、その友人ペレ、ジョシュ、マークの5人は、ペレの故郷であるのホルガ村へと向かう。 ホルガ村は自然に囲まれた僻地の村。 白夜を迎えていることもあり、予告映像でも見られる通り、一日中明るい青空と草木の緑が広がり、花が咲き乱れる景色がとにかく美しい。 村民は一つの家族として過ごしており、大きな建物の中で一緒に寝起きしたりする。 90年に一度のの祝祭が行われる時期で、それが旅行の目的の一つでもあった。 ミッドサマーの独特の儀式に困惑しつつも、興味深くそれらを体験するダニー達。 村人とともに崖の下に集められ、何が起こるのだろうと待っていると、村の老人2人が崖の上に現れる。 目を凝らしている彼らの目の前で。 2人は相次いで、崖から身を投げた。 ドッ、という音。 顔の肉が抉れ、断面を露わにする、老女だった死体。 ダニー達は声も出ないが、村人達は即死した彼女に向けて賞賛の拍手を送る。 足が潰れたものの、死に切れなかったもう一人の方に杵を持った村人が近づき、その顔面に振り下ろす。 高齢の村人が新たに生まれる命のために自分の命を与える。 輪廻転生の考えを持つホルガ村の、ミッドサマーの儀式のいち工程だったのです。 もうひと組の旅行者のサイモン&コニーの婚約者ルは恐慌状態に陥り、村人を非難しながら出て行こうとする。 ダニー達もショックを隠しきれないが、ペレに宥められて村に残ることに。 その後も、数日かけてミッドサマーの儀式は進んでいく。 先の投身自殺のような出来事は起こらないものの、神聖な木に立小便をしたマーク、を盗撮しようとしたジョシュが相次いで姿を消すなど、不穏さが常に立ち込め、外部から来て残っているのはダニーとクリスチャンのみになる。 そのクリスチャンも村の娘・マヤに見初められ、隠毛入りの食事(!)を食べさせられたりする。 そんな中、メイクイーンを決めるダンスでダニーが優勝し、女王に。 ダニーが女王の儀式をしている間、クリスチャンはお膳立てされたマヤとの性交に誘われる。 このセックスシーンが、この異様な作品の中でも強烈。 事前に強力な精力剤のようなものを飲まされたクリスチャンは、半ば朦朧とした状態でとある建物に連れて行かれる。 そこには、花に囲まれ全裸で横たわって待ち構えるマヤと、それを囲うように数名の女性が全裸で肩を組んで立っている。 マヤに呼応するように声を上げる女性達に見守られながら腰を振り続けるクリスチャン。 字面だけでもヤバい。 でもここまでくると怖いを通り越して滑稽でウケる。 しかも、ダニーはその様子を目撃してしまう。 役目を終え、正気に戻ったクリスチャンは建物を飛び出し、鶏小屋に逃げ込む。 だが、そこで見つけたのは、背中の皮を開かれ、オブジェのように花で飾られた死体。 村から去ったはずのサイモンだった。 そしてクライマックス。 メイクイーンとなったダニーの前で、村の長らしき男が語り出す。 ミッドサマーには9人の生贄が必要なこと。 うち4人は外部の人間、もう4人は村人から、そして最後の一人はクイーンが決めるのだと。 外部の4人と村人の二人はすでに命を捧げている、というセリフで、マーク、ジョシュ、サイモン、コニーがすでに殺されていることがわかる。 そして村人からは、投身自殺した二人に加え、自ら志願したという二人が進みでる。 最後に、くじで選ばれた村人一人とクリスチャンが並べられ、ダニーはどちらかを選ぶよう迫られる。 ラストシーン、入ってはいけないと言われていた神殿の扉が開かれ、そこに並べられていく、死んだ生贄6人の皮を被った人形と、志願した二人、中央に置かれるのは、ダニーに選ばれ、「悪しき獣」の象徴として熊の皮を被せられたクリスチャン。 準備が整った神殿には火を放たれ、生きた生贄もろともすべてが焼かれていく。 * 待って。 これで記事1本分くらいある。 ここからようやく、ミッドサマーが怖いのか怖くないのかについて考えます。 『ミッドサマー』はなぜ怖いのか まず、普通に『ミッドサマー』の怖い部分について。 と言っても、映画を観た方やあらすじを読んだ方には説明するまでもなく、この作品には残酷なシーンも精神的にきついシーンがたくさんあります。 冒頭のダニーの家族の心中シーンもショッキングだし、投身自殺や背中を開かれたサイモン、クリスチャンたちが生きたまま焼かれるラストシーンはグロい。 隠毛を食べさせたり異様なセックスシーンなどの歪んだ性的表現はキモい。 こういうわかりやすい怖さ、グロさ、キモさを画的に見ていられないという人はその時点で無理だと思う。 この映画はそれに加え、音、映像テクニックでも存分に揺さぶってくる。 例えば、映像。 ダニー達が車でホルガ村に向かうシーン。 車が走る様子を映していたカメラが、車の移動に合わせてだんだんと向きを変え、村に入るシーンでは天地逆になる(監督の前作『ヘレディタリー』でもやってるらしい)。 他にも、ダニーが家のトイレに入るシーンで、ドアから切り替えて飛行機の機内のトイレになっていたりとか、クリスチャンが目を閉じて画面が暗くなり、目を開けるとダニー視点になっていたり。 ワンカット風に見せながらシーンを区切る手法で、こちらが前提にしているものをひっくり返してくる。 その他にも、幻覚作用のある「マッシュルーム」やら怪しげなものを摂取するシーンがちょこちょこあるのだけど、その効能か画面が歪んだり、花が呼吸しているように動いたり、手足に草が生えてきたりと、今見ているものが現実なのか幻覚なのかわからなくさせて、「酔わせて」くる。 そして、音。 『ミッドサマー』では、BGMとして弦楽器が多用されている。 それはダニーの不安や恐怖に共鳴するように鳴らされることが多く、慟哭のような嘆きのような、人の声ではないかと思うほどほど感情の乗った音となり、観ている側はダニーの不安定な感情に取り込まれていく。 楽器だけでなくうめき声も画面外ょっちゅう流れ続けている。 そして、それが結局誰の、なんの声なのか、現実に響いている音なのかさえ明かされないまま進行していく。 こんな風に、ストーリーや出来事以外の部分で、現実と妄想の間に放り込まれ、容赦なくシェイクされ、答えのない不快感や不安を抱え続けたまま観続ける羽目になる。 それが『ミッドサマー』。 これらの要素に入り込みすぎるタイプの人はトラウマになるし、『ミッドサマー』を怖い映画だと評するのではないかと思います。 『ミッドサマー』はなぜ怖くないのか 『ミッドサマー』は怖い、という話をした直後に手のひらを返して、今度は『ミッドサマー』は怖くない、という話をします。 怖くない理由の一つはカメラワーク。 ホラー映画のほとんどはショッキングな映像をいきなり!切り替えて!目の前に!見せることで恐怖を与えてくる。 観てる人を驚かせて声を上げさせる。 「動」の恐怖ですよね。 しかし、ミッドサマーではそれを絶対にしない。 代わりにロングテイクが多用されています。 例えば、冒頭のダニーの家族の心中シーン。 シューシューという音とサイレンのような音を背後に、カメラは家の中をゆっくり進んでいき、目張りされた両親の寝室へ。 消防士の手によってドアが開けられると、ベッドの上には目を閉じる夫婦の姿。 けれど彼らが寝ているわけではないこと、シューシューいう音がガス漏れの音であることを、この一つのカットを観ているうちに観客自ら気づかされるわけです。 サイモンの死体を見つけるところもそう。 クリスチャンの視線に合わせるようにゆっくりとカメラが動く。 急に死体をバン!と出されることはない。 なんなら早い段階でクリスチャンの死体は画面端に映り込んでいる。 最初は何かわからない。 でも、だんだんとそれがおぞましく飾られた死体であることに気づく。 「見せない」ことさえある。 ダニーがクリスチャンとマヤのセックスを目撃する時も、映像になっているのは、壁の穴越しに目を見開くだけ。 でも既にあの狂ったセックスシーンを観てる我々は「アレを見ちゃったのねダニー…」ということが否応なくわかってしまう。 驚かされて知らされるのではなく、自ら気づかされる。 『ミッドサマー』は全編通してそういうつくりになっています。 最初に『ミッドサマー』は怖くない、と書きましたが、厳密に言えば「怖がらせてもくれない」が正しいかもしれない。 いわゆるホラー映画のセオリーを使わないんです。 登っていくジェットコースターに乗せられて、もうすぐ落ちるぞという予感はあるのに、絶対に落とされない。 その緊張感だけを絶え間なく与えられ続ける。 『ミッドサマー』がホラー映画ではない、「怖い」ではなく「嫌な気持ちになる」、と言われる大きな所以はここにあるのではないかと思います。 もう一つ、個人的に『ミッドサマー』が怖くないと思ったのは、「ルールが明瞭」ということです。 幽霊とか呪いとかゾンビとか、ホラー映画お得意の題材って、基本的に非科学的です。 罰当たりなことをしたとかの「発生のきっかけ」みたいなものはあるかもしれないけど、そのメズムは不明。 いつ、なぜ、なにに襲われたり殺されたりするかわからないまま、登場人物は逃げ惑うしかない。 ルールがない。 ゆえに理不尽です。 ところが、『ミッドサマー』ってすべてが明瞭なんですね。 例えば最初の投身自殺。 もちろんグロいし痛そうだし「止めなよ」って感じなのですが、それはあくまで外から来たダニーたちの発想。 ホルガ村住人からすれば、長い年月続いてきた当たり前の風習なわけです。 なんなら、新しいものに自分の命を与えるという幸福でさえある。 マヤとクリスチャンの儀式めいたセックスも、村人の絶対数の少ないホルガ村においては、意図せぬ近親相姦の発生を避けるためにも、外部の血を定期的に入れて存続するためにも、村全体で性行為を管理するのは必要なことだったのだと思います(とはいえこの儀式のやり方は意味わかんなすぎるので監督のなんらかの癖を感じてしまうけれども。。。 外から来た人間が知らないだけで、ホルガ村にはずっと続く「ルール」があり、村民たちはすべてそれに則って行動しているだけなんです。 文化圏がめちゃめちゃ遠い国の法律と同じことです。 彼らの行為に、説明なオカルトや無秩序は一つもない。 ただ私たちが理解できないだけ。 そして、そういう「異界」に自ら足を踏み入れてきたのはダニーたちのほう。 神聖な木に小便をかけたマークや聖殿に侵入したジョシュは、一見、罰として殺されたようですが、それすらも違うんじゃないかと私は思います。 なぜなら、「外部からの生贄」は「4人」必要だったから。 祝祭の時に村にいた外の人間は、ダニーを含めて6人。 彼らのうちの3分の2が生贄になることは最初から決まっていたわけです。 そして、最後の生贄となる選択肢の片割れとしてもう一人で、5人。 ダニーがこの旅行に来たのはやむを得ずクリスチャンが誘ったからで、最初の頭数にはなかった。 そう考えると、ホルガ村へ来ることを決めた時点で、ほぼすべての人間は何らかの形で祝祭に組み込まれていたわけです。 4人、ないし5人の生贄が必要な儀式に5人の人間が用意され、手順通り生贄になった。 この話ってただそれだけなんです。 めちゃめちゃ明瞭なんです。 不思議なことも、理不尽なこともないんです。 だから「怖い」とは言い難い。 ただただ嫌な気持ちになるだけ。 そして、その嫌な気持ちも、映像に押し付けられたものではなく、観る人が想像し、勝手に気づく、という構造になっている。 そういう他へのぶつけようのなさも、鑑賞後の不快感に結びついていくのではないでしょうか。 でも伏線やメタファーが無数にあって考察し甲斐があるし、文章では表現しきれない音&カメラワーク&映像美こそがこの作品の妙だと思うので、「これなら観られるかも」と思った人は映画館で体験してみてください。 無理だなと思った人はやめとこう。 erio0129.

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