ヤルタ 会談 内容。 テヘラン会談

ヤルタ密約「ソ連の対日参戦」、独は情報共有、日本は抹殺し侵攻招く 諜報力の違い鮮明(1/3ページ)

ヤルタ 会談 内容

書簡の発信は署名から8年後の1953年のことで、その直前には米国でアイゼンハワー大統領が就任し、密約を事実上否定する方針を打ち出していた。 第二次大戦から米ソ冷戦に至る激動の中、英国を率いたチャーチル首相の真意に注目が集まりそうだ。 中西輝政氏 チャーチル首相のイーデン外相宛書簡(53年2月22日付)に従えば、アジア太平洋の軍事戦略の主導権を米国に委ねていた首相は、45年2月にクリミア半島のヤルタで開かれた会議で、米ソ首脳による密約協議の蚊帳の外に置かれていた。 しかし、協議に参加した米国のハリマン駐ソ大使の「覚書」によると、チャーチル首相は密約の合意が成立すると、自分も文書に署名すると割り込み、会談最終日に署名したという。 「極東における英国の権益保護」が目的だったとされる。 それから8年後の53年2月。 アイゼンハワー大統領は演説で、共産主義ソ連を念頭に「あらゆる人々の奴隷化」に同意せず、ヤルタ密約など外国との秘密協定の有効性を認めずに破棄する立場を表明。 チャーチル首相が密約から距離を置く考えを書簡にしたためたのは、この直後のことだった。 ロシアのプーチン現政権は、「北方領土は第二次大戦の結果、ソ連(ロシア)領になった」といった主張を繰り返している。 今回見つかった書簡は、ロシア側がその有力な根拠の一つとするヤルタ密約が、署名したチャーチル首相その人によって疑義が持たれていた可能性があることを示している。 裏返せば、署名したチャーチルも密約の正当性に疑念を抱いていたとみられる。 アジアの権益確保のため署名に加わったものの、責任回避することで「密約」を無効とした米国のアイゼンハワー政権の姿勢に英国も事実上、同調していたことがうかがえ、ヤルタ協定を根拠とするロシア側の北方領土占有の主張は根拠を失うだろう。 両国との結束を乱したくなかった」と、不本意ながら署名したことを示唆する個人書簡が英国立公文書館で見つかった。 チャーチル首相が密約の有効性に疑問を抱いていたことをうかがわせる。 書簡(PREM11/432)は1953年2月22日付で、チャーチル首相からイーデン外相に宛てたもの。 1953年、英国のチャーチル首相からイーデン外相に宛てた書簡。 ヤルタ密約への署名について釈明している。 末尾に「WSC」のサインがある=英国立公文書館所蔵(岡部伸撮影) この中でチャーチル首相はヤルタ密約について、ルーズベルト米大統領とソ連のスターリン首相が「直接取り決めた」とし、「全ての事項がすでに(米ソで)合意された後に昼食会で知らされた」「私たちは(取り決めに)全く参加しなかった」と主張。 英国の頭越しに米ソ間で結ばれたと強調している。 一方で、密約に署名した45年2月の時点では、連合国は欧州ではヒトラーのドイツとの戦いで最終局面を迎え、対日戦線でも結論が見通せなかったため、米ソ両国との「結束を乱したくなかった」と述べ、融和を優先したと釈明している。 イーデン外相はこの2日前の53年2月20日付でチャーチル首相宛てに書簡を送っており、今回見つかった首相の書簡はこれに対する返信と位置づけられる。 外相の書簡は、アイゼンハワー米大統領が53年2月の演説などを通じ、共産主義による民衆の「奴隷化」を招く秘密協定は全て破棄する方針を打ち出したことを伝えている。 これを受けて出された書簡でチャーチル首相は、「ヤルタで起きたことは詳(つまび)らかにすべきだ」との見解を示している。 チャーチル首相は、「米国務長官だったステティニアス氏ですら、(密約に関して)相談されなかった」との見方を書簡に記しており、大戦中のルーズベルト米大統領が独断でスターリン首相の要求に応じたと考えていることを示している。 ルーズベルト大統領はソ連による千島列島と南樺太の領有権を認めることを条件に、スターリン首相に日ソ中立条約を破棄しての対日参戦を促した。 会談では、ドイツ降伏後2カ月または3カ月でソ連が対日参戦することが秘密協定としてまとめられた。 また、国際連合創設を協議し、ドイツと中・東欧での米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定。 東西冷戦幕開けのきっかけにもなった。

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5分でわかるヤルタ会談!秘密協定の内容や北方領土についてわかりやすく解説

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ヤルタ会談とマルタ会談の違い ヤルタ会談とは、大事世界大戦中の 1945年 2月 4日から 11日にかけて、ソビエト連邦のヤルタ近郊で開催された、 アメリカ合衆国・イギリス・ソビエト連邦の三国間の首脳会談です。 一方、マルタ会談は 1989年 12月 2日から 3日にかけて、地中海に浮かぶマルタ共和国(正確には船上)で行われた アメリカ合衆国とソビエト連邦の首脳会談です。 ヤルタは黒海に突き出したクリミア半島にある都市なので、名前は似ていてもマルタとは場所がまったく異なります。 覚え方は時代順に「ヤ・マ(=山)」にこじつければ良いでしょう。 まさに「山勘」といったところです。 ヤルタ会談とマルタ会談が開催された背景・目的 (ヤルタ会談 出典:) ヤルタ会談は、 1945年 2月という開催時期が示すように、 第二次世界大戦の戦後処理について話し合われたものです。 出席者はアメリカ合衆国がフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスがチャーチル首相、ソビエト連邦がスターリン書記長です。 ヤルタ会談は第二次世界大戦の終結に大きな役割を果たした反面、戦後の長きにわたって続く米ソ両陣営の 東西冷戦(冷たい戦争)の発端にもなりました。 その 冷戦の終結宣言が出されたのが、1989年末のマルタ会談です。 (マルタ会談 出典:) アメリカ合衆国のジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ大統領(父親のほう)とソビエト連邦のゴルバチョフ書記長が共同声明を発表しました。 これによって、約 44年間続いた東西冷戦は終わりの時を迎えたのです。 また、第二次世界大戦の勃発を防げなかった国際連盟に代わる平和維持機関として設立が模索されていた国際連合において、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国(中華民国)の 5か国に拒否権を持たせることが提案されたのもヤルタ会談でした。 千島列島に関しては、ソ連(現在のロシア)と日本の間に解釈の違いがあり、今も解決されずに 北方領土問題として継続しています。 これにより 1990年の東西ドイツ統一、その翌年のソビエト連邦解体など、重大事件が雪崩のごとく起こることになりました。 なお、込み入った知識ですが、アメリカ合衆国のフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相は、 1945年の 1月 30日から 2月 3日、すなわちヤルタ会談の直前にもマルタで会談を行っています。 よって厳密には、マルタ会談は 「1945年のマルタ会談」と 「1989年のマルタ会談」の二種類が存在するのです。 しかも、その間にヤルタ会談の開催時期が挟まれているので、ややこしいことこの上ありません。 世界史の入試でもまず問われることのないマイナーな出来事です。 ましてや日本史において、この会談について問われることはあり得ないと言い切って差し支えないでしょう。 何よりも、その内容が日本とは無関係なものなので、日本史の知識としては必要ないものです。 単に「マルタ会談」と言えば、「 1989年のマルタ会談」を指すと考えて問題ありません。 このことが戦後の 東西冷戦の原因の一つになりました。 一方、アメリカ合衆国のフランクリン・ルーズベルト大統領はこの時すでに病魔に侵されており、これが最後の国際会議の出席となりました。 5月にルーズベルト大統領が死去すると、その後を継いだのが副大統領から昇格した トルーマンです。 日本に二発の原爆を投下したのは、このトルーマン大統領です。 アメリカが日本への原爆投下を強行した理由は、 ソ連をけん制して戦後統治の主導権を握るためだったという説が有力ですが、そもそもソ連の対日参戦はヤルタ会談の秘密協定においてアメリカとの合意がなされていたはずです。 途中で方針が変更されたのか、大統領の交替が影響しているのかといった推測は成り立ちますが、秘密協定という性格上真相を知ることは今となってはもはや不可能でしょう。 ただ、個人的な見解を加えれば、少なくともソ連の対日参戦の後に、長崎に二発目の原爆を投下する必要はなかったのではないでしょうか。 もちろん、広島への原爆投下は仕方がなかった、などと言うつもりは毛頭ありません。 アメリカにこんな仕打ちを受けながら戦後は西側陣営に組み入れられ、忠実な同盟国として尽くしている姿は、他国民には理解しがたいのではないかと思われます。 マルタ会談の日本への影響を考えるならば、むしろ旧東側陣営諸国との貿易が盛んに出来るようになったことが大きいのではないでしょうか。 特に資源大国であり、人口も多いロシアとの貿易は、日本の輸入・輸出において存在感を増しつつあります。 それだけに、北方領土問題の早期解決が望まれるところです。 まとめ.

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ヤルタ会談で合意された内容のうち、旅順租借権のソ連による回復、大連に関...

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外モンゴルと極東の旧日本領土の内容 主に日本に関して、にの、ソ連ので秘密会談を行い、その後イギリスのとの間で交わされた秘密協定。 1944年12月14日に、スターリンはアメリカの駐ソ大使に対して、の権益(や)、(サハリン)南部やの領有を要求しており 、ルーズベルトはのにソ連の協力が欠かせないため、1945年2月8日にこれらの要求に応じる形で、の一方的破棄、すなわちを促した。 ヤルタ会談では、これが秘密協定としてまとめられた。 この協定では、ソ連の強い影響下にあった()の現状を維持すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと 、の港湾とにおける、ソ連の権益を確保することなどを条件に、ドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月を経て、ソ連が対日参戦することが取り決められた。 アメリカからソ連に対する対日参戦要請は早く、日米開戦翌日(アメリカ時間)の1941年12月8日にソ連の駐米大使にルーズベルト大統領と国務長官から出されている。 このときはソ連の外相からリトヴィノフに独ソ戦への集中と日ソ中立条約の制約から不可能と回答するよう訓令が送られた。 しかしその10日後には、スターリンはイギリスの外相に対し、将来日本に対する戦争に参加するであろうと表明した。 スターリンが、具体的な時期を明らかにして対日参戦の意思を示したのは、1943年10月のモスクワでの連合国外相会談の際で、ハル国務長官に対して「連合国のドイツへの勝利後に対日戦争に参加する」と述べたことを、ハルやスターリンの通訳が証言している。 ヤルタ協定はこうした積み重ねの上に結ばれたものだった。 ドイツが無条件降伏した、1945年5月8日()の約3ヵ月後の、はでの協定に従って、ソ連は日本にし、に侵入、とを占領した。 しかし、の翌日(1945年)に、日本が「受諾」をに通告したため、戦争末期(の調印まで)の極めて短期間の間に、ソ連の戦果に対して日本の領土を与えるという、結果としてソ連に有利な内容になった。 に極東密約(ヤルタ協定)が公開された。 なおに、共和党政権は「(ソ連による占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、の公式文書ではなく無効である」とのが公式声明を発出している。 また、は、1951年の批准を承認する際、決議において「この承認は、合衆国としてヤルタ協定に含まれている、ソ連に有利な規定の承認を意味しない」との宣言を行っている。 台湾と朝鮮半島について について、米ソ両国はで決定していたへの返還を改めて確認した。 または、当面の間連合国のとすることとし、後になってを境に暫定的に南側をアメリカ、北側をソ連へと分割占領にする事と決定した。 しかし、米ソの対立が深刻になると、そのがとなって勃発し、朝鮮半島はに至る現在も、を境に分断されている。 日本側の停戦工作への影響 1945年1月6日、の動きを懸念したがの意見を求めたため、とが協議して、木戸が拝謁準備を行い 、2月になって、、、、、、が順次に拝謁して意見を述べた。 そのうちのが支持したは、連合国との和平調停に向けた人事異動を推奨するものであったが、予定されていたこれら重臣全員の拝謁が終わったのは2月26日だった。 7月には近衛文麿がに派遣され、ソ連に対し連合国との和平調停の仲介を求めたものの、既にヤルタ協定が行われていたため仲介を拒絶された、と言われている。

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