あざみ野 神社。 歴史の紹介

あざみ野神明社|横浜市青葉区あざみ野の神社

あざみ野 神社

今日はあざみ野を散歩しました。 意外にも急行止まるので、渋谷まで25分です。 鉄オタの友達が、「住むなら和光かあざみ野」と言ってて、僕はそれで知ってます。 友達が推す理由としては、 ・渋谷からある程度離れてるので安い物件ある ・市営地下鉄も走ってるので新横浜とか横浜にも一本で出られる とかなんとか言ってましたけど、そのあとなんか時刻表のウンチクを語りだしたので、よく覚えてないです。 あざみ野駅前 降りました。 市営地下鉄乗り換え口があります。 このまま湘南台まで行けます。 朝はこの動線のダッシュがすごいんだろうなあ。 あざみ野駅の東側 まずは栄えてなさそうな方面に出ました。 性格です。 東急沿線お決まりの東急スーパー。 抜け目ない。 全部持ってく。 あとはタリーズもあります。 栄えてなさそうなほうはこんな感じ。 不動産屋がメインですね。 川がありました。 早渕川。 綱島付近で鶴見川に合流する。 脇の道に入ってみます。 のどかっすねえ。 ほこらが雑な感じであります。 大丈夫でしょうか。 これを丁寧に祀ったら株価大復活するとかないかなー。 なんも言ってない標語。 さらに奥に入ってみます。 行き止まりかな。 ちっさい公園がありました。 ちっさい。 新石川1丁目公園。 危険なボール遊び禁止。 確かになんかサッカーボールから稲妻出てる。 確かに危ない。 なんか悪いサッカー漫画見てサッカー危ない! って思ったんですかね。 なんか裏通りの細い道が続いていそうなので行ってみます。 崩壊危険地域だそうです。 やばい。 確かにこっち側やばそう。 てかねえ、地形をなんとなく把握したんですけど、あざみ野は谷なんですよ。 たまプラーザと江田の丘に挟まれた谷。 早渕川が、多分谷底を流れてたんだと思います。 なんかの自販がありました。 売り切れているので分からない。 何売ってるんですかね。 大量に欲しい人は家まで行けばいいらしい。 でも何売ってるんですかね。 細い道はまだ続いてます。 脇は突然畑です。 生産緑地地区。 横浜市ホームページによると、 『農産物を生産する場としてだけではなく、保水機能や緑地としての機能、災害時の空地としての機能』を期待されてるのだそうです。 つって、まあ、一般的には、余ってる土地を農地にするみたいなやつです。 細い道、神社の脇に出ました。 さっきの道に戻ってきました。 もうちょっと行ってみます。 油絵とかコンピューターとかを教えてます。 守備範囲広い。 なんか、正しそうな、和菓子屋さん。 意外にもカフェオレ大福を推している。 ちょっとこれ以上いくと駅からずんずん離れそうなので一旦駅戻ります。 さっきの川沿いの道から駅へ戻る。 あざみ野駅南側 駅の上?側に出ました。 テナント募集の字が反対だなーと思ったので、ああ、反対に文字書いてるのかーと思ったら 反対から撮ってもテナント募集の字が反対。 どういう仕組みだろう? 最先端の何かだったらどうしよう。 なんか、量子力学とか。 空手道場がある。 空手道場があるし、炎のシェフも居る。 こどもがすわったりしてるんでしょうね。 こどもにむけたおねがい。 あざみ野駅のホームが横に見えます。 だから何だって話ですけど。 ここから線路超えられますね。 あざみ野駅のホームが正面に見えます。 だから何だって話ですけど。 すげえ階段。 降ります。 あざみ野駅西側 あざみ野駅の栄えてそうな側に来ました! 栄えてるんでしょうね! 遺言書作成サポートと、定款作成と、抹茶と、あとケーキとか売ってる。 遺言とケーキ買うとき便利。 駅前ですね。 駅前っぽい駅前。 バスもいっぱい居ます。 駅前にそびえるのはあざみ野センタービルです。 右脇に、「あざみ野ホール入り口」と書かれてるのが見えるの分かりますかね。 「あざみ野ホール入り口」に来てみた。 大丈夫でしょうか。 上ってみます。 居酒屋が一件ありました。 奥には中華料理屋があります。 ビルとビルの隙間が見える。 客にあんまり見せちゃいけないやつな気がする。 さっき駅から見えた側のあざみ野ホール入り口。 2階飲食街って、さっきのとこか。 ちなみに、隣のビルのほうがあざみ野センタービルよりでかい。 毎度思うけど、窓ガラスに、こう、広告全部貼っちゃってるの見ると、中で「このビル暗いよねー」「ねーなんでだろー」とか言ってないか不安になる。 その脇はなんと竹やぶです。 駅前に竹やぶ。 いや、民家でした。 駅前に、藁葺の古民家。 しかもネットで探しても理由わからず。 特に文化財とかにもなってなさそう。 古地図を見ると、江戸末期には既にあるように見える。 謎です。 あざみ野駅の商店街 ここが駅から伸びるメインの商店街ですかね。 こんな感じで続いていますが、 一本裏通り行ってみます。 ひよっこ。 二階の窓にあるのは、ひよっこだけに、卵ですかね。 あとなんかいろいろ絵を試行錯誤した跡が見える。 一緒にゆっくり探そうよ! 友達かよ! このステッカーを見るたびに、こう、どうにかしてバックさせたくなる。 メインの商店街に戻ってきました。 ところで、ここは、あざみ野商店会だそうです。 神奈川の奥地なのにダイビングの店がある。 しかもダイビングスポットへの送迎やってるらしい。 すごい。 こういうモールいいですよね。 商店街の中のミニ商店街みたいな。 アタック。 ヘナって、字面だけで面白いですよね。 カリタス女子短期大学がありました。 廃校になるそうです。 最後は、何だろ、勝手にすればいいじゃないですか、みたいなやつ。 あざみ野駅の北側 商店もまばらになってきたのでこっちへ曲がってみます。 この木意地悪そうだなー。 通る子供通る子供の風船割ってそう。 すっごいマンション。 うちにもアーチとかあったらなー。 なんかこの辺ずっと工事してるけど何なの? に丁寧に答える看板。 横浜市水道局のキャラクター、はまピョン。 ピの丸もカエル。 石垣に手をふれないで! このお宅の壁がどんどんはがされているから! おもちゃやみかんで子供を釣る神社。 神とは。 なんか広い通りに出ました。 この真ん中に流れてる川、さっきの川ですねきっと。 これ辿っていけば駅に戻れそう。 仮バス停。 ほんとにここに止まるんでしょうか。 もし自分が使うバスだったらすっごい心配になる。 体育大学にも予備校ってあるんですね。 何するんだろう。 線路が見えてきました。 駅すぐそこです。 階段に人が座っているかどうか、定期的に確認しに来る警察。 ア歯科。 タウンページ対策でしょうか。 こう、前に載るし。 これで阿さんとかだったらほんとごめん。 対策とか言ってごめん。 沖縄のお店がありました。 駅脇に飲食モールがありました。 さっきのあざみ野ホールと同じ香りがしますが大丈夫でしょうか。 大丈夫じゃないかもしれないです。 客にあまり見せちゃいけないやつ。 わりと大丈夫でした! ここの蕗乃屋っていう豚肉料理やさんのランチがめちゃくちゃ美味かったです。 というわけで駅につきました。 雑感あざみ野。 人も多くて、駅前にもちゃんとした商店街あるんですけど、駅の目の前のビルと広い古民家が謎です。 土地売らないぞ、みたいな感じなんでしょうか。 なんというか、東急って、駅前をわりとがんばる感じがあって、ともするとJRと比べて駅の個性みたいなやつがあんまり出ない傾向にあると思うんですね。 その中でなんというかすごい異色な駅です。 古民家は他にはないんじゃないか。 まあこれはこれで、なんかいいのかもしれないです。 あざみ野でした。

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篠原八幡神社

あざみ野 神社

数々の駿馬を輩出した石川牧の総鎮守として祀られてきた「驚神社」。 創建年代は不明ですが、古くから石川牧の総鎮守だったと伝わっており、江戸時代には「鷺明神社」と呼ばれていたそうです。 奈良時代に制定された、軍馬の育成施設(牧場)「勅旨牧」のひとつが、この地「石川牧」。 武士が駆る馬の産地として、長い間重用された場所でした。 鎌倉幕府を開いた源頼朝が所有していたと伝わる名馬「磨墨」、また源頼朝の家臣で「坂東武士の鑑」と謳われる畠山重忠所有の「三日月」もここから献上された馬だったと云われています。 御祭神は、素戔嗚尊。 最寄駅は、東急田園都市線「あざみ野」駅。 徒歩5分ちょっと。 大鳥居。 大鳥居の扁額。 大鳥居をくぐると、すぐに両部鳥居が。 その後長い参道を歩いていきます。

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あざみ野 驚神社!「馬を敬う」で驚神社です♪

あざみ野 神社

創立年代不詳ですが、当地の鎮守として古くから村民の信仰を集めています。 【伊勢社の地神塔】 鳥居の右に安政3年 1856 銘の二十三夜塔、左に元治元年 1864 銘と昭和2年の文字地神塔、地神と書かれた石塔 年不詳 があります。 かつて、ここには水量豊富な滝が流れていたそうです。 【石川の地】 石川の地名は、中世の文書にも出てくるほどの古い地名です。 石川の地は、古代官道の東海路が通り、中世には鎌倉街道中ノ道と、中ノ道の支道も通っていました。 また、中世の石造物である板碑も多数出土し、地区の仏教浸透を物語っており、当時の武士層の居住や中世集落の存在を裏付けています。 縁起については不明な点が多く、僅かの伝承があるのみです。 『神奈川県神社誌』によると、「往古より石川牧の総鎮守なりと伝えられる」とし、古代御牧の一つ「石川牧」に因むとしています。 一方『新編武蔵風土記稿』をみると、石川村の條に驚神社がなく鷺明神社となっており、驚明神を誤って鷺明神と記してしまったようです。 地元の人は、昔から元石川は名馬がよく出た場所で、驚の社号は馬を敬ったことに由来するのだといいます。 郷土史家の戸倉英太郎氏は、『都筑の丘に拾う』で驚の社号について、「驚の社号はもと早渕川の水音から生まれて"トドロキ"であったのではなからふか、さうして此の社は此の関門の守護神であり水を守り給ふた神であるから"トドロキ"と神を崇められた、それが後に"ヲドロキ"と転化し驚の漢字を用いたものと言いたいのである」と推定しています。 また、境内の由来碑によると、「畠山重忠が中ノ道を往来の都度、参詣したとの記述もある」とあることから、鎌倉時代前よりあったようです。 【驚神社の祭礼・牛込の獅子舞】 祭礼は10月10日。 石川各地区の谷戸宮の祭礼でもあります。 保木には十社宮、平川は平川神社、荏子田は八幡社、船頭は御嶽社、牛込は神明社と、各地区では正午に石川の中央部に当たる堂前(現在の早渕川かかる平崎橋周辺)に集結して、驚神社へと奉献行列を組み進みます。 その中での圧巻は、「牛込の獅子舞」で、きらびやかな衣装は元禄絵巻そのままの姿です。 あざみ野駅前 北口 の一等地、うっそうと木が茂っている正面の森の中に、野本家の茅葺きの家が現存しています。 いつ建てられたかは定かではないそうですが、昔から変わらぬ姿であるようです。 また、山内地区の旧道沿いには、酒屋、鍛冶屋、雑貨屋の家屋が現存しています。 特に古いのは驚神社で、平安時代からあったと伝えられています。 さらに、山内小学校の建物も120年前の創立といわれています。 【新橋北側に残る旧道】 新橋の北側に旧道が現存し、早渕川の東側の山内地区を通り、驚 おどろき 神社の先の東名高速道下まで残っています。 新石川にある驚神社の祭礼の時は、保木・平川・荏子田・牛込・船頭・宮元のはやし連が繰り出されて賑やかに通ります。 平常は人通りも少なく、静かな道です。 往古より当地の鎮守として村人和合の中心として崇敬されています。 【牛込の獅子舞】 江戸中期より約300年間以上伝承されてきた獅子舞を例祭に奉納、当地区総鎮守驚神社の例祭にも奉納されています。 この獅子舞は、元禄年間に流行した悪疫を退散させるために神社に奉納したと伝えられていることから、かなり古い神社といえます。 この獅子舞は、神奈川県の無形文化財に認定されていて、その姿は1人立ち3頭獅子といって獅子頭を頭につけ腹に太鼓をしばり、これを叩きながら長笛と太鼓に合わせて3頭の獅子が華やかに踊り獅子舞には9人の少年が関わり、いずれも牛込地区に生まれた長男に限られていましたが、今では男以外の男子も踊るようになりました。 400年以上もの歴史を持つ極めて格式の高い真言宗のお寺で、本山は奈良・長谷寺です。 満願寺のあるあざみ野やたまプラーザ周辺は、江戸時代に武蔵国都築郡石川村と呼ばれ、徳川2代将軍秀忠公の正室江姫の化粧領でした。 江姫と村人は旧交があり、江姫は冬に村人に木綿の綿入を下され、春には村人がそれを着てゴボウを献上したと記録があります。 江姫の葬儀には村人350人がお棺をかついだといい、各月命日には村人が満願寺に集まって冥福を祈り、喪に服したものと思われます。 満願寺には現在も徳川2代目将軍秀忠公と江姫、6代将軍家宣公、7代将軍家継公、9代将軍家重公の位牌が安置されています。 その理由は、この満願寺が芝増上寺(徳川家の菩提寺)の裏鬼門に当たる地だからだそうです。 裏鬼門は貢、東北の鬼門の反対で南西の凶方位を指します。 この裏鬼門の結果、守護の役割を満願寺が与えられていることから、石川村は増上寺の山内に年貢を納めていたといいます。 山内とは、寺の内または寺の境内という意味で、これを訓読して「やまうち」となり、山内村はここからきているという説があります。 江戸時代、石川村は、幕府を霊的に守る重要な土地でした。 【金子馬之助の墓】 墓地には、明治10年代に自由民権運動に身をささげた1人の民権家・金子馬之助の墓があります。 馬之助は、石川村に少年達の教育を重点に置いた結社育英社を設立しました。 当時の東京毎日新聞にも報道され話題となりました。 大正12年10月、66歳の生涯を閉じました。 【満願寺の庚申塔】 満願寺入口左側のフェンス内に、享保6年 1721 銘の青面金剛庚申塔が2基あります。 墓地もないようで参拝者もいなく、何時も門が閉まっているようです。 創始を明らかにする記録史料はありませんが、村人の崇敬年暦を重ね、村の鎮守として崇敬されてきました。 別名「荏子田かんかん穴」とも呼ばれています。 横浜市指定史跡になっており、昭和3年5月に行った調査で、2基の横穴古墳が保存されていて、1基は内部 死者を納め安置した玄室 が切妻式の家型にかたちづくられています。 7世紀前半ころの地域の有力者のお墓と考えられています。 創始を明らかにする記録資料はありませんが、村人の崇敬年歴を重ね鎮守崇敬されてきました。 土地区画整理によって、新しい荏子田の町が生まれたのは、昭和59年4月でした。 石川村の他の地域が、美しが丘やあざみ野など、新しい名前に変更されていくなか、唯一昔の地名「荏子田」をそのまま街の名前として残しています。 【荏子田八幡社の地神塔】 境内に、年不詳の地神塔があります。 大きい灯籠が道端にあるのには、とにかく驚かされます。 灯籠は、一番上の宝珠から下部の基礎部分まで完全な姿を残しています。 この灯籠については、次のような話が残っています。 それは、幕末に石川村から一人の娘さんが江戸渋谷の薩摩屋敷に奉公に行ったそうです。 その娘さんが、明治維新となり奉公を終えて村に帰る際に、記念にということでこの灯籠を貰い受けてきたのだといわれます。 このため、人々は誰言うともなく「薩摩灯籠」と呼ぶようになったと伝えられます。 【尾作谷戸の庚申塔】 元石川町6348 灯籠から道標に従って少し戻り、右折して尾作谷戸にある覚永寺へと向かうと、この谷戸の中程の丁字路左側に、幕末に寺子屋の師匠をしていた「岩崎家」があります。 岩崎家からさらに奥に進むと、竹林の先右手に「黒沼家」があります。 黒沼家の手前の竹薮がある平坦なところは、もと釈迦堂があった場所といわれています。 いつ頃廃堂になったか不明ですが、竹薮の中の少し上に釈迦堂関係の僧侶の墓が4基あります。 その左端に、享保16年 1731 銘の青面金剛庚申塔があります。 この辺りは静かで散策をするには絶好のところで、この先に覚永寺があります。 【覚永寺】 元石川町6391 さらに西に向かうと「覚永寺」があります。 この辺りは、里山の景色がすばらしいところです。 創立年代未詳。 一説に、往古神猿があらわれて田畑を害すること甚だしく、村民一致してその霊を祀ることにより豊穣平和を得たと伝えます。 このあたりは、古くは平川と呼ばれていました。 平川とは早渕川のことなのでしょうか? 【平川神社の地神塔】 本殿左側に、安政6年 1859 銘と明治27年の地神塔が2基あります。 坂上すぐ下に、横浜市が設置した標識があります。 戦後につくられた小道でくねくねと曲がっているため、このように呼ばれてきました。 薬師堂は天明3年(1783)10月、もとは満願寺(元石川町)の境外仏堂として建立されたお寺で、昭和62年現在の地に改築されました。 ご本尊は神奈川県県指定重要文化財で、僧・尊栄が承久3年 1221 に造った高さ85. 5cmの寄木造りで、鎌倉時代の傑作とされる薬師如来坐像です。 現在、県立博物館に寄託されていますが、毎年9月12日に里帰りして護摩法要が行われます。 薬師は、病を癒し、災いを除くなど12の大願を立て成就した後、如来になったといわれています。 保木薬師堂の隣には十社宮があります。 【保木薬師堂の庚申塔】 境内左側に、天明2年 1782 、延宝5年 1677 、寛延2年 1749 銘の青面金剛庚申塔などがあります。 【十社宮】 美しが丘西2-7 保木薬師堂の裏手に「十社宮」があります。 創立年代不詳ですが、往古より当地の鎮守として崇敬され、村民の信仰によって祭祠の伝統を継承しています。 旧社殿は寛延二2年 1749 造営と伝わります。 【保木の地名】 美しが丘西の地は、かつて「保木」(ほぎ、ほうぎ)と呼ばれていました。 ほぎは、崖や山腹の険しいところ、または山間の深い谷の意味で「剥ぐ(はぐ)=剥がれる」や「解ぐ(ほぐ)=穴が開く、崩れる」の意味があり、全国的にみて崩壊地形などに多く付けられた地名です。 青葉区でも高い位置にあり、早渕川の源流の谷戸川が幾つもあったことから付いた地名なのでしょうか? 2020年• 07月• 08月• 09月• 10月• 11月• 12月 2019年• 2018年• 2017年• 2016年• 2015年• 2014年• 2013年• 2012年• 2011年• 2010年• 2009年• 2008年• 2007年• 2006年• 01月• 02月• 03月• 04月• 05月• 06月• 07月• 08月• 09月•

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