清少納言 紫式部。 『紫式部日記』でめっちゃ清少納言をディスる紫式部

5分で清少納言について!枕草子ってなに?紫式部との関係は?│れきし上の人物.com

清少納言 紫式部

紫式部といえば『源氏物語』を著したことで超絶有名ですが、他にも色々書いていて、その中には『紫式部日記』なるものもあります。 紫式部が書いた日記であるからには、彼女の普段の気持ちや考えが出ているんでしょうなぁ、と若いときに読んだことがあります。 そしたら、何だか清少納言のことをかなりボロカスに書いてあってビックリしたあの日。 『紫式部日記』とは 『紫式部日記』は紫式部によって書かれたとされている日記で、1008年秋から1010年正月まで、宮中の様子を中心に書かれています。 中宮彰子の出産が迫った1008年(寛弘5年)秋から1010年(寛弘7年)正月にかけての諸事が書かれている。 史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかり、史料的価値もある。 自作『源氏物語』に対しての世人の評判や、彰子の同僚女房であった和泉式部・赤染衛門、中宮定子の女房であった清少納言らの人物評や自らの人生観について述べた消息文などもみられる。 また、彰子の実父である藤原道長や、同母弟である藤原頼通や藤原教通などの公卿についての消息も多く含む。 引用元: 『紫式部日記』は何気なく書かれた日記ではありますが、当時の宮中の様子を当事者の目線でみることができるので、後世からしたら上等な史料になっています。 清少納言をディスる紫式部 さて、この『紫式部日記』の中で、『枕草子』で有名なあの清少納言について書かれた部分があるのですが、これがおもいっきり清少納言をこき下ろしていて面白いので是非知っておいていただきたい。 『紫式部日記』の中の清少納言 原文はこんなカンジです。 清少納言こそ、したり顏にいみじう侍りける人。 さばかり賢しだち、眞字書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと堪へぬこと多かり。 かく人に異ならんと思ひ好める人は、必ず見おとりし、行く末うたてのみ侍れば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすゝみ、をかしきことも見過ぐさぬ程に、おのづからさるまじく、あだなる様にもなるに侍るべし。 そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らん。 古文に強い人は、もうこれを読んだだけで「うわー」ってなるでしょう。 訳してみた 清少納言は、ホンマに得意顔で偉そうにしとる人や。 あんなに賢こそうにして漢字を書き散らしとるその程度も、よう見たらまだまだイケてへんところが多いわ。 こんなふうに人とはちゃうねんと思いたがる人は必ずよう見えへんし、先行きは悪うなってまうばっかりやから、風流ぶってばっかの人は、ひどく無風流でつまらんときでもしみじみと感動してるようにふるまい、また趣深いことを見逃さないようにしとるうちに、自然とそうあったらアカン誠実やない態度にもなるねん。 そんな誠実やない態度が身についちゃった人の将来が、どうして良うなる言えんねん。 なぜ紫式部は清少納言をこき下ろしたのか なかなか辛辣な言葉で清少納言をこき下ろしている紫式部ですが、一体なんでこんな言葉になってしまったのでしょう。 そこには『枕草子』の存在があります。 『枕草子』は清少納言が宮仕えをしていた7年間が、華やかに風流に描かれています。 そして、その中には漢詩を書いて周囲に褒められたという、清少納言自身の自慢話もありました。 清少納言はそれくらいあっけらかんとして社交的な性格だったんです。 それが(おそらく)紫式部には気に食わなかった。 『紫式部日記』を読めばわかりますが、紫式部は清少納言と正反対と言っていいくらいの内気な性格だったようです。 そんな紫式部にとって、キラキラした清少納言は嫉妬の対象でしかなかったんでしょう。 しかし、紫式部が宮仕えを始めたのは清少納言が宮廷を辞してから6年後ですから、2人は会ったこともないんですけどね。 でも、紫式部が出仕したときにもキラキラした『枕草子』はまだまだみんなに読まれるベストセラーでしたから、それで「なんやムカつくわー」ってひとりで日記にシコシコと悪口を書いていたわけです。 夫の悪口を言われた? 今回、これを書くにあたって色々調べているときに、面白いことがわかりました。 『日本の白歴史』というブログの、「」という記事によると、『枕草子』に、藤原宣孝という人物に書かれた部分があります。 この人は、紫式部の夫となる人です。 後に、紫式部の夫となる藤原宣孝と言う人物の服装を『あわれなるもの』という章段で語っています。 宣孝は神社に参拝する時、悪趣味でド派手な服装に身を包み、すれ違う人が二度見するほどであったと・・。 ふむ、紫式部は、もしかしたら「清少納言が過去に我が夫をバカにしたことがある」と思っていたのかもしれません。 だから「あのクソ女~我が夫を~コノヤロコノヤロ」とか言いながら日記に書いていたのかもしれませんね。 最後に 関西風に訳してサックリ書いて終わりにしようと思ったのに、調べてるうちに面白くなってきて色々書いてしまいました。 みなさんも、不用意に日記に人の悪口を書いていたら1000年後に誰かに読まれて「悪口を日記に書いて、暗いやっちゃな~」って思われることになるかもしれないので、悪口もほどほどに。

次の

紫式部とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

清少納言 紫式部

ねらい 清少納言が、宮廷や世の中のようすを随筆として「枕草子」に書きあらわしたことがわかる。 内容 平安時代、紫式部が「源氏物語」を書き始めたころ、もう一人、才能を現した女性がいます。 清少納言です。 清少納言は、天皇の后に教育係として仕えていました。 そこで感じたことを気の向くままに書きつづったのが「枕草子」です。 にくらしいもの。 急いでいるときにやって来て長話する人。 軽くあつかえる人なら「後で」と言えるけれど、気が引けるほどりっぱな人の場合は、そうもいかず、なおのことにくらしい。 およそ300の文章がおさめられた「枕草子」。 そこには、清少納言がするどい感性で見つめた平安時代の季節や自然、人びとの気持ちが生き生きとえがかれています。

次の

清少納言について!枕草子や百人一首、紫式部との関係や性格・本名を解説!

清少納言 紫式部

二人の才女と二人の中宮 定子と彰子の関係 では、まず清少納言と紫式部が仕えた『定子(ていし)』と『彰子(しょうし)』の関係を見ていきましょう。 簡単な家系図を作成しましたのでご覧ください。 このように、定子と彰子は『いとこ』の関係にあたります。 兄(長男)『藤原道隆』の娘が定子。 弟(五男)『藤原道長』の娘が彰子。 そして、定子と彰子が嫁いだ天皇が、共に 『一条天皇』です。 つまり、一条天皇は定子と彰子という二人の奥さんを持っていたことになります。 (定子と彰子を『中宮(天皇の妻のこと)』と言いますが、彰子の入内に伴い、定子は皇后となります) ではなぜ、定子と彰子が共に一条天皇へ嫁ぐことになったのか? それは、藤原道長の野望が深く関係しています。 その詳細はコチラの記事をご覧ください。 なので、清少納言と彰子は直接的な関係はありませんし、紫式部と定子にも繋がりはありません。 清少納言と定子の関係 では、清少納言と定子の関係はどのようなものだったのでしょうか? 出典:より 枕草子絵巻 鎌倉時代 清少納言の作品である『枕草子』には、定子がたくさん登場します。 枕草子は随筆なので日記的な側面も強く、清少納言の日常も多く書かれている為、清少納言と定子のやりとり、清少納言が見た定子の佇まいが随所に散りばめられています。 そんな枕草子を読んでいる限り、清少納言は定子のことを心から尊敬しており、常に憧れの眼差しで見つめていたことが読み取れます。 そして定子自身も、頭が切れ起点の利く清少納言をとても気に入っていたようです。 そんな二人の関係性を物語るエピソードが、枕草子にたくさん記されています。 その中でも、最も有名なのが 『香炉峰の雪』と言われるエピソードです。 打てば響く清少納言の起点に、定子が大満足したお話です。 『香炉峰の雪』は清少納言の自慢話と捉えられることも多いですが、実際はそうではなく、定子への尊敬の念が込められたエピソードです。 そんな『香炉峰の雪』からも、二人の関係は主従を超えたとても良好なものであったことが分かります。 紫式部と彰子の関係 続いて、紫式部と彰子の関係を見ていきましょう。 出典:より 土佐光起筆 石山寺蔵 紫式部の場合、嫌々宮廷出仕を始めているので、最初はなかなか周囲に馴染めなかったようです。 彰子の目にも『ちょっと近寄りがたい人』と映っていたようで、紫式部の日記にも、そんなようなことが書かれています。 紫式部が宮廷出仕したばかりの頃のエピソードは、コチラをご覧ください。 これも紫式部日記に書いてあるのですが、彰子は大人しい性格だったようで、当初の紫式部と彰子の関係は、あまり良いものではなかったようです。 とは言え、紫式部は時の権力者『藤原道長』からの直々の要請で彰子に仕えた経緯がありました。 つまり、源氏物語のような物語を書く才女であり、教養も持ち合わせていた紫式部は、彰子の教育係として、宮廷に無理やり引っ張り出された経緯があります。 なので、彰子と夜な夜なマンツーマンで漢詩の講義などをしており、次第に彰子も紫式部に心を開いていったようです。 結果的に、紫式部は彰子にとって一番親密な女房になったことが日記にも記されています。 最初はぎこちなかった紫式部と彰子ですが、最終的にはお互いを信頼し合う関係になったのでした。 スポンサーリンク 4人の関係まとめ 以上、清少納言と紫式部と定子と彰子の関係性でした。 少し、ややこしいかもしれないので簡単にまとめると・・• 『清少納言』と『定子』・・・たいへん良好な主従関係• 『紫式部』と『彰子』・・・最初は微妙だったけど、結果的に良好な主従関係• 『清少納言』と『紫式部』・・・面識は無いけど、紫式部はライバル心を持っていた• 『定子』と『彰子』・・・いとこであり、ともに一条天皇の中宮• 『清少納言』と『彰子』・・・直接的な関係性は無い• 『紫式部』と『定子』・・・直接的な関係性は無い という事になるのでした。

次の