ナポレオン。 ナポレオンについて語られる逸話と死因の謎!英雄の戦術と身長の真実

ナポレオン・ボナパルト

ナポレオン

ナポレオン・ボナパルトの生涯 1769年、コルシカ島に生まれる。 1779年にフランス本土の陸軍幼年学校、1784年にパリの陸軍士官学校に入学。 士官学校では砲兵科を専攻。 通常の在籍期間が4年程度のところをわずか11か月で卒業。 1785年に砲兵士官として任官。 1789年にフランス革命が勃発。 これにより絶対王政が倒れ、フランスは立憲王政から共和制へと展開。 1794年のテルミドールのクーデターによりこの市民革命は終わりを告げる。 オーストリアによるフランス革命への干渉を契機として開始されたフランス革命戦争が欧州各国に拡大していくなか、ナポレオンは1796年にイタリア方面軍の司令官に抜擢される。 ナポレオン軍は連戦連勝し、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得して、膨大な戦利品を得る。 英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎をもって市民に迎えられる。 1798年、英印交易の中継地点であったエジプトを押さえるためにナポレオン軍はエジプトに上陸して勝利。 しかしその直後にネルソン率いる英国艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオン軍はエジプトに孤立。 1799年、オーストリアにイタリアを奪還されるとナポレオンは単身フランスに帰国。 歓喜をもって迎えられたナポレオンはクーデターにより統領政府を樹立し、独裁権を握った。 ナポレオンはイタリアの再獲得を目指し、アルプス山脈を越えて北イタリアに入る奇襲策を取り、オーストリア軍に勝利。 英国とは講和が成立。 国内の法整備にも取り組み、1804年にはナポレオン法典を公布。 これは「万人の法の前の平等」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取り入れた画期的なものであった。 1804年、ナポレオンは即位式を行い、皇帝に就任する。

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ナポレオンについて語られる逸話と死因の謎!英雄の戦術と身長の真実

ナポレオン

まだまだ混乱状態にあった革命後のフランスを治め、独裁者としてフランスを強力な軍事国家に成長させました。 画像:Jean Auguste Dominique Ingres 後のナポレオン戦争で敗北して失脚するまで指導者としてフランス帝国を指揮し、ヨーロッパ大陸のほとんどの地域を支配下に置きました。 ナポレオンは現在でもフランスの英雄として扱われており、国外においても非常に人気の高い偉人として知られています。 ルイ16世やマリー・アントワネットの処刑でも有名なこのブルボン王朝の転覆により、フランスは絶対王政から共和制に生まれ変わります。 画像:Jean Duplessis-Bertaux 市民運動から始まったフランス革命でしたが、最終的には当時軍人だったナポレオンのクーデターにより決定的なものになりました。 これによりフランスはナポレオンを先頭にした新体制を築くことになります。 このような理由からナポレオンはフランスにおいて英雄として扱われているのです。 ナポレオンと同様にフランスの英雄とされているジャンヌ・ダルクについては関連記事にまとめています。 中でもローマ帝国の作家プルタルコスの『英雄伝』がお気に入りだったといわれています。 画像:Jean Auguste Dominique Ingres 体が小さく無口だったナポレオンはあまり友達が多くありませんでした。 それどころか言葉の訛りやナポレオンの発音に近い『ラパイヨネ(藁の鼻)』と呼ばれてイジメられることさえありました。 彼は非常に短気で馬鹿にされると直ぐに相手に殴りかかるような子どもでした。 画像:Andrea Appiani ナポレオンは癇癪(かんしゃく)持ちであったため発達障害だったのではないかという説も存在します。 アインシュタインなどの天才と呼ばれた偉人の多くは発達障害だったことがわかっており、彼らの偉業と何かしらの因果関係が存在するといわれています。 20世紀最大の物理学者アインシュタインについては関連記事にまとめています。 ナポレオンの身長は167センチメートルほどでしたが、これは当時のフランス人男性の平均身長と変わりませんでした。 それではなぜナポレオンは身長が低かったといわれるようになったのでしょうか? 画像:Jacques-Louis David 実はナポレオンの側近たちの身長が軒並み高かったのです。 当時のフランス軍幹部は180センチメートルを超える高身長者ばかりであり、最も身長が高かったモルティエ元帥などは196センチメートルもある大男でした。 それもそのはず、ナポレオン親衛隊の入隊条件は身長が178センチメートル以上と決められていたのです。 これではナポレオンが小さく見えてしまっても仕方ありませんね。 彼はパリの陸軍士官学校で大砲科に通っていましたが、通常4年かかる在学期間をわずか11ヵ月で終了しています。 画像:pixabay これは陸軍士官学校始まって以来の最短記録であり、ナポレオンがいかに優秀な人物であったかがわかる逸話です。 また、学問の中でも特に数学が得意で、学校でトップクラスの成績を収めていたといわれています。 ナポレオンは生涯数学の勉強を続けており、皇帝になったあとも数学者を近くに置いて勉強をしていました。 当時まだ中位の軍人だったナポレオンは自軍の惨状を見かねて、敵軍近くの港の高地を占領し、そこから敵艦めがけて大砲を打ち下ろす戦術を提言します。 司令官であったデュゴミエ将軍がこの戦術を実行したところ見事に成功し、ナポレオンは『若き英雄』と呼ばれるようになりました。 画像:F. de Myrbach また、パリで大規模の反乱が起こった際には一般市民に散弾大砲を撃ち込むという驚愕の戦術で事態を迅速に鎮静化させます。 その後も司令官になったナポレオンはイタリア軍に対して独自の大砲戦術を展開し連戦連勝を収めることになります。 こうしてフランス国内でのナポレオン人気は不動のものとなりました。 そして、ナポレオン率いる大砲隊も後述する『ナポレオン戦争』で大敗するまでは無敵の陸上軍隊として世界中で恐れられるようになるのです。 そしてナポレオンは市民階級からの意向を受け、総裁政府に対して『ブリュメールのクーデター』を起こします。 統領になったナポレオンはオーストラリアに大勝し、イタリアの一部をフランスの保護国にします。 残るイギリスとも『アミアンの和約』を結び、国内外の混乱を治めたのです。 同じく世界的に有名な独裁者ヒトラーについては関連記事にまとめています。 その内容はすべての人民に対する法の平等性を謳っており、宗教や経済活動の自由を保障するものでした。 画像:pixabay これは現在の法律にも近い近代的な法典であり、当時は非常に画期的なものでした。 他にもナポレオンは国民のために公共の教育制度を制定し、交通の整備にも力を入れています。 また、フランス革命後に政府との関係が悪化していたローマ教会に対しても歩み寄り、『政教条約』によって対立の緩和を図っています。 かの有名な「皇帝ナポレオン一世」の誕生です。 この皇帝即位はフランス国民の投票によって行われ、民主主義形式に沿ったものでした。 しかし、実質には民主主義における『英雄の独裁政権』であり、諸外国には衝撃を与えました。 画像:Jacques-Louis David,Georges Rouget フランス革命以前は王が即位する際には教皇が王に対して冠を授けるのが一般的でした。 しかし、ナポレオンは当時の教皇ピウス7世を戴冠式に招いておきながら、自身で王冠を頭に載せたのです。 この行動は政治と宗教の決別を意味しており、政府が教会を管理するというナポレオンの意思表示でした。 皇帝になったことで権力は世襲制になり、ナポレオンは兄のジョセフをナポリ王に、弟ルイをオランダ王に、弟ジェロームはヴェストファーレン王に即位させています。 彼女はクーデターのメンバーで旧政府のリーダー格でもあったポール・バラスの愛人でした。 つまりナポレオンは上司の愛人と結婚したのです。 バラスはナポレオンが起こしたクーデターに参加するもかつての地位を失い、ナポレオン夫妻を誹謗中傷した罰で後に国外追放されています。 そのためジョセフィーヌとは離婚し、39歳のときにオーストラリア皇女マリ・ルイーズと再婚しました。 ナポレオンの再婚相手にははじめアレクサンドル1世の妹でロシア皇女のアンナ・パーヴロヴナ大公女の名前が上がっていました。 しかし、ロシア側の猛反対に遭いオーストラリアの宰相メッテルニヒがマリを薦めたのです。 画像:Joseph Franque こうしてナポレオンとマリは結婚し、翌年にはナポレオン2世が誕生しました。 ナポレオンは息子が誕生すると直ぐに彼をローマ王に任命します。 ナポレオン2世は若干0歳にして王に即位することになったのです。 この凱旋門はナポレオンが命じて造らせたものでした。 画像:Alvesgaspar 巨大な凱旋門の建設には30年もの月日を要し、完成した時にはナポレオンはすでに亡くなっていました。 ナポレオンの墓がパリに移された際に、彼はこの凱旋門の下を通っています。 ベートーベンはナポレオンの支持者であり、彼のために『英雄』を作曲したのです。 しかし、民主主義を謳っていたはずのナポレオンが皇帝に即位したことに失望し、曲名を『ボナパルト』から『英雄』に変更したのではないかといわれています。 画像:Joseph Karl Stieler 他にも曲の内容が英雄の死についても触れていたため、ナポレオンの名前を伏せたとする説もあります。 ベートーベンにはナポレオンのスパイだったという説もあり、ふたりが全くの他人ではなかったと考えられています。 難聴の天才作曲家ベートーベンについては関連記事にまとめています。 ナポレオン率いるフランス軍はイギリス、オーストリア、ロシアなどの大同盟軍を相手に苦戦を強いられることになりました。 ナポレオンは交渉による終戦と退位を望みましたが、部下の裏切りにより無条件で失脚させられてしまいます。 こうしてナポレオンのフランス帝国は終わりを告げたのです。 しかし、一度は国外追放されながらもナポレオンはパリに戻って復位を成し遂げます。 彼は反ナポレオン勢力との交渉を試みましたが拒否され、最終的に戦争に敗れてイギリスに捕縛されました。 復位からわずか95日後の出来事でした。 そこで彼を苦しめたのは慣れない高温多湿の気候と看守の提督ハドソン・ローでした。 ハドソンはナポレオンを「ボナパルト将軍」と馬鹿にして呼び、腐った酒などを振る舞ったといわれています。 また、ナポレオンが体調を崩した際には主治医を国に帰らせてしまいました。 晩年のナポレオンの生活は屈辱と悲哀に満ちた凄惨なものだったのです。 そして、孤独の中でその生涯を終えました。 解剖されたナポレオンの遺体から胃がんや胃潰瘍の痕が見つかったため、一般的に彼の死因は胃がんだとされています。 しかし、ナポレオンにはヒ素での暗殺説も存在するのです。 ナポレオンの遺体がフランスに還されたとき、彼の体はほとんど腐敗が進んでいない状態でした。 ヒ素には腐敗を遅らせる効果があるため、ナポレオンはヒ素によって暗殺されたのではないかと噂されました。 画像:World Imaging また、高温多湿の劣悪な環境によって発生したカビが部屋の壁に使われていたヒ素とともに空気中に浮遊し、それを長期間にわたって吸い込んだナポレオンが中毒死を起こした可能性も指摘されています。 他にも臨終時にナポレオンを看取った医者が出した薬が混ざり合うことで劇物になっていたことが残されたカルテで明らかになっています。 公的にナポレオンの死因は現在も胃がんだとされていますが、他殺であった可能性は捨てきれないのです。 このナポレオン2世はナポレオンが失脚後に幽閉され、21歳の若さで結核を患い亡くなっています。 彼は結婚することができなかったため、ナポレオンの子孫はここで途絶えています。 そういった意味ではナポレオンの血は途絶えておらず、子孫もいるということになります。 ナポレオン7世であるシャルル・ナポレオン・ボナパルトは現在も健在の政治家であり、息子のジャン・クリストフ・ナポレオン(ナポレオン8世)は 1986年生まれの31歳です。 ナポレオンの弟ルイはフリーメイソンの副グランドマスターを務めており、同じく弟のジェロームやジョゼフも後にグランドマスターに就任しています。 画像:Jean-Baptiste Debret ナポレオンがフリーメイソンだったという証拠は残っていませんが、これらの事実から彼もフリーメイソンだった可能性が高いといわれているのです。 ナポレオンはフリーメイソンの持つ幅広い人脈や情報によって治世を有利に進めていたのかも知れません。 世界的に有名な秘密結社フリーメイソンについては関連記事にまとめています。 ここではナポレオンの名言・格言をご紹介します。 それが将軍としての第一の素質である。 しかし、行動する時が来たなら、 考えるのをやめて、 進め。 俺が状況を作るのだ。 出典参考: 画像:Jacques-Louis David いかがでしたか?フランスの英雄ナポレオンについてご紹介しました。 独裁者でありながら人民に愛されたナポレオン。 彼のカリスマ性は今の世にこそ必要なものなのかも知れません。 世界にはまだまだロマンが溢れています。

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ナポレオンとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

ナポレオン

Napoleon Bonaparte 1769-1821 2006年センターテスト追試 右の図はダヴィドの描いた有名なナポレオン像である。 この図を題材にして、2006年のセンターテストでは次のような問題文があった。 「ナポレオン=ボナパルトは、皇帝になる前から、自らの「英雄」的資質を人々に印象づけるための肖像画を制作さていた。 次の図は、彼が、1800年にサン=ベルナール峠を越えて、北イタリアのマレンゴでオーストリア軍に大勝したときの、アルプス越えの様子を描いたものである。 足元の岩には、ボナパルト、ハンニバル、カール大帝の名が刻まれており、ナポレオンが、古代カルタゴの名将、中世フランス王国のに続く、近代のアルプス越えの英雄であることが示されている。 このようなナポレオンの肖像画は、数多く作成され、フランス国内やナポレオン支配下の国々の宮殿を飾るのに用いられた。 」 第一統領 は立法権も握り、フランス革命の成果を固定するための処置を進めた。 中央銀行としてのの設立、通貨の発行、教育の統一など経済と社会の安定を図り、にはローマ教皇との和解()を実現(信教の自由は継承)した。 外交面では1800年に再びアルプスを越えて北イタリアに入り、6月14日、 マレンゴの戦いでオーストリア軍と戦い、勝敗はつかなかったがオーストリア軍は退却した。 翌1801年の リュネヴィルの和約でライン左岸を獲得し、オーストリアはイタリアから排除された。 一方、3月にイギリスとので当面の講和を実現した。 政治の安定を受けて1802年に憲法を改正、終身統領制として自ら就任した。 にはを発布したが、それはナポレオン自身が編纂に参加したもので、法の下の平等、信仰や労働の自由、私的所有権の絶対と契約の自由など、フランス革命の成果を固定させる民法典となった。 皇帝ナポレオン さらに革命理念の全ヨーロッパへの拡張を称えて、といわれる実質的な征服戦争を展開し、国内ではブルジョワ・小ブルジョワ・農民の幅広い支持を背景に、、として即位し皇帝となった。 国民投票で承認された上で、同年12月2日、パリのノートルダム大聖堂でローマ教皇立ち会いのもとで戴冠式を挙行し、自らの手で戴冠した。 これによってフランス革命によって生み出されたは終わりを告げ、フランスはへと移行した。 ナポレオン1世 1804年、ナポレオンは国民投票を行った上で皇帝ナポレオン1世として帝政を開始。 この第一帝政のもとでフランスは革命精神の輸出と称して周辺のヨーロッパ諸国を侵略、ヨーロッパ征服を目指し、1807年ごろまでに大陸をほぼ制圧した。 しかし、イギリス征服はできなかった。 その野望は1812年のロシア遠征に失敗したことから急転し、各国に諸国民戦争と言われる解放戦争が始まり、パリも陥落したためナポレオンは1814年に退位した。 まもなく配所のエルバ島を脱出し、パリに帰還し皇帝に復したが、1815年6月のワーテルローの戦いに敗れて「百日天下」に終わり、セントヘレナ島に流され、1821年に死去した。 時代はウィーン体制という反動期に向かっていく。 ダヴィッド筆によるナポレオンの戴冠式 ナポレオン1世は、、が皇帝となってからの称号。 ナポレオンの皇帝就任は「革命暦12年フロレアル28日の元老院令」で決議された。 共和国政府は国民投票を実施したが、圧倒的多数が皇帝就任を承認し、それは形式に過ぎなかった。 12月2日、で戴冠式が行われ、正式に皇帝ナポレオンが誕生、こうしてフランスはに移行した。 これはフランス革命の終末を意味していたが、ナポレオン帝政はフランス革命の成果を前進させる側面もあった。 図解:ナポレオンの戴冠式 1804年12月2日、ナポレオンは戴冠式をパリので挙行したが、それはがローマで行われた前例と異なることを意識してのことであった。 そしてわざわざローマから教皇ピウス7世をパリに招いて式を挙行した。 上の図はナポレオンの戴冠式を描いたの作品。 これはダヴィドの代表作としてよく知られているもので、中央にナポレオンが、ひざまづいたジョゼフィーヌに皇后の冠を授けようとしている。 すでにナポレオンは帝冠を戴いているが、それも自ら頭に載せた。 本来ローマ教皇から授けられるべき帝冠を自ら戴いたことはローマ教皇にとって屈辱であった。 右手に座っているのが教皇ピウス7世で不興げな顔をしている。 ダヴィドはフランス革命期に活躍した画家で、ロベスピエールに心酔していたためにでは捕らえられ入獄した。 その後、ナポレオンが台頭するとその専属画家に採用され、さまざまな記録的な絵画を残した。 Episode ベートーベン、第三交響曲の献辞を破棄 ナポレオンの1歳年下で、同世代の作曲家 ベートーベンは、ナポレオンを革命の理念である自由と平等を実現する英雄であると考え、賛美する第三交響曲の作曲を進めていた。 しかし、ウィーンでナポレオンの皇帝即位の報に接し、ナポレオンへの献辞を記した最初のページを破り捨てた。 完成した交響曲はその力強い曲調から、人々から『エロイカ(英雄)』と呼ばれるようになった。 第一帝政 ナポレオンの皇帝就任は周辺諸国に大きな衝撃を持って迎えられ、その大陸制覇を警戒したイギリスの首相ピットは、を破棄し、にを結成する。 それに対してナポレオンはイギリス侵攻をめざしたが10月21日で敗れて計画を放棄し、焦点を大陸内に移し、12月2日、ではオーストリア・ロシア連合軍を撃破した。 ナポレオンが南西ドイツ諸侯を統合してを結成すると、翌10月14日、にプロイセンが反撃したがでプロイセン軍を撃破したナポレオンはベルリンを占領し、11月21日に(ベルリン勅令)を出した。 さらにロシアに支配されるポーランドに侵攻し、ロシア軍を破り、にを結んで講和した。 これによってナポレオンの大陸支配が成立した。 ナポレオンのヨーロッパ支配 ナポレオン帝国の直接統治はオランダと北西イタリアに及んだ。 さらにポーランド()ドイツ西部・イタリア・には傀儡政権を置き、とオーストリアは同盟国となった。 ナポレオンはヨーロッパにフランス革命の理念を拡げたが、実際には一族を各国の支配者に送り込み、専制支配を行った。 それに対してヨーロッパ各地で反ナポレオンの民衆蜂起が起こり、フランス軍は弾圧に追われていた。 またナポレオン支配下のヨーロッパの諸民族の中に、主権と独立の確立を目ざす運動が激しくなった。 1806年にはオランダのを倒して傀儡国家をつくって弟ルイを国王にすえ、さらに1810年には直轄領としてフランスに編入した。 5月2日~3日、が起きるとナポレオンは1808年11月には自ら大軍を率いて侵攻したが翌年には撤退をよぎなくされた。 1810年には皇妃ジョセフィーヌと離婚し、オーストリア・ ハプスブルク家の皇女マリア=ルイザと再婚し、家柄に箔をつけようとした。 Episode ナポレオンの一族 ナポレオンは征服した各地に自分の親族を支配者として配置した。 彼自身はフランス皇帝であるとともに王を兼ね、義理の息子(皇后ジョセフィーヌの連れ子)ウジェーヌ=ド=ボーアルネを副王とした。 兄ジョゼフは国王とした後、国王とした。 二番目の弟ルイは国王、三番目の弟ジェロームはドイツ西部のウェストファリア国王、妹エリザはイタリア中部のトスカナ大公妃、三番目の妹カロリーヌの夫ミュラ元帥はベルク大公の後に国王となった。 ナポレオンは一族の力を借りてヨーロッパ統合の夢を実現しようとしたのだった。 <ティエリー・レンツ/福井憲彦監修『ナポレオンの生涯』1999 知の再発見双書 p. 106,> ナポレオンの没落 6月、ベルリン勅令に違反してイギリスへの穀物輸出を続けていたロシアを制裁するとして、を開始し、モスクワに達したが、ロシア軍の後退作戦にはまって失敗に終わり、無惨な敗北となった。 ヨーロッパ各国の反ナポレオンの動きが急速に強まり、10月ので決戦となった。 戦いはナポレオンの敗北となり、オーストリア・プロイセン・ロシア同盟軍がパリ入城し、4月2日、ナポレオンは退位し、に流された。 ナポレオン戦争の戦後処理のためが始まったが、各国の利害が対立して話が進まない間に、にナポレオンはエルバ島を脱出し、3月にパリに帰還した。 ウィーン会議の列国はあわてて結束を固め、6月にでイギリス軍のウェリントンの指揮する同盟軍に敗れ、に終わった。 今度は南大西洋のに流され、厳しい監視の下におかれて1821年5月5日に死去した。 Episode ナポレオンの二度の結婚 ナポレオンは生涯で正式な結婚は二回あった。 一度目は1796年のジョセフィーヌ、二度目は1810年のマリー=ルイーズである。 最初の妻ジョゼフィーヌはフランス領のマルティニーク島の生まれで、ボーアルネ子爵と結婚し2児をもうけたが、夫が断頭台に送られ貧しい未亡人となっていた。 そのうちの総裁の一人バラスらと「親密な交際」で生計を立てるようになった。 そのバラスが反政府反乱鎮圧に登用したのがナポレオンだった。 バラスはナポレオンにジョゼフィーヌを「譲った」。 1796年、新婚のナポレオンはイタリア遠征軍の指揮官に選ばれ、その勝利をきっかけに栄達を開始する。 ジョゼフィーヌは「けたはずれの浪費家で貞節も守らなかった」がナポレオンは彼女を深く愛した。 遠征先からの愛情を込めた手紙が多数残されている。 しかし、二人の間には子供が産まれなかった。 ジョゼフィーヌは不妊に効果があるという温泉にでかけたりしたが無駄だった。 それでもナポレオンは離婚は考えていなかった。 1804年12月、ナポレオンが戴冠すると同時にジョゼフィーヌも皇后となった。 上の図でナポレオンの膝下にぬかずいているのが皇后ジョゼフィーヌである。 しかし、皇帝となったナポレオンには世襲の重荷がのしかかってくる。 なんとしても帝位を実の子供に継承させたいと願った。 そんなときナポレオンと関係のあった女性たちが出産し、不妊の原因は皇后にあることがわかった。 1809年12月、ナポレオンはジョセフィーヌと離婚した。 この日の来ることを恐れていたジョゼフィーヌは、ナポレオンからその決意を直接聞いて気絶したという。 それは演技だったという説もある。 ジョゼフィーヌはパリ郊外のマルメゾンに広大な別邸をあたえられていたが、離婚後もそこで暮らし、1814年まで生きた。 現在ではその別邸は博物館になっているという。 政治的効果を狙うため、新しい皇后はヨーロッパの大国から迎えることが望ましかった。 初めはロシアの皇女が候補にのぼったが破談し、結局オーストリア皇女マリー=ルイーズに決まり、1810年4月、結婚式が行われた。 マリー=ルイーズは大叔母を処刑した国の皇后となったわけである。 父のフランツ1世(最後の神聖ローマ皇帝だった人)が「コルシカの怪物」といっていたナポレオンだったが、実際には優しく迎えられ、円満な家庭生活を送った。 もっともナポレオンは「私は(子供を産むための)腹と結婚したのだ」と広言してはばからなかった。 そして1811年3月20日に待望の男の子が生まれると、ナポレオンはその子に「ローマ王(ロワ=ド=ローム)」の称号を与えた。 パリでは皇太子誕生を祝って101発の祝砲が鳴り響いたが、それは「ナポレオンの夢の完成を告げると同時に、転落の始まりを表す砲声だった。 」 なお、マリー=ルイーズはナポレオン失脚後はオーストリアに帰り、イタリアに領地を得て、廷臣のナイベルク伯爵と再婚した。 また「ローマ王」は父の失脚後、ウィーンの宮廷で生活し、1832年に21歳で生涯を終えた。 <ティエリー・レンツ/福井憲彦監修『ナポレオンの生涯』1999 知の再発見双書 p. 23,47,108,> Episode ナポレオン、死んで凱旋門をくぐる ナポレオンはの翌年の1806年、その勝利を記念してパリに凱旋門の建造に着手した。 それが現在のエトワール広場の凱旋門である。 しかし、その完成を待たず、セントヘレナ島に流され、1821年にその地で死んだ。 凱旋門が完成したのは、ようやく1836年のことだった。 つまり、ナポレオンは生きて凱旋門をくぐることはなかった。 時代の1840年、ナポレオンの遺体はパリに移されることになり、その時、遺体は凱旋門をくぐって、アンヴァリッド聖堂に埋葬された。 参考 ナポレオンの述懐 オクターヴ・オブリ編の『ナポレオン言行録』はナポレオンが自らを語ったり書いたりした断片を集めたものだが、意外に自画自賛だけではない、彼の歴史を見通す眼と率直な思いを知ることができる。 6「戦争について」の最後に、恐らくセントヘレナにおけると思われる、ナポレオンの次のような言葉がある。 引用 戦争はやがて時代錯誤になろうとしている。 われわれが全大陸で数々の戦闘を交えてきたのは、二つの社会が相対峙していたからである。 すなわち、1789年からはじまった社会と旧制度とが。 この二つの社会は両立できないものであった。 若い社会が古い社会をむさぼり食った。 しかし、そんなことはどうでもよい! 私が打ち倒されたことは文明が闘いに敗れたことである。 私の言葉を信じ給え、文明は復讐をするであろう。 二つのシステムがある、すなわち過去と未来とである。 現在はつらい過渡期にすぎない。 何が勝ち誇るべきであるか?未来が勝ち誇るべきではないか? とすれば、未来は知性であり、産業であり、平和である。 過去は暴力であり、特権であり、無知であった。 われわれの戦勝のおのおのは革命の思想の勝利であった。 勝利はいつの日にかは大砲もなく銃剣もなしに達成されるであろう。 <オクターヴ・オブリ/大塚幸男訳『ナポレオン言行録』1983 岩波文庫 p. 258-259>.

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