天元 引退後。 音柱・宇髄天元(うずいてんげん)は柱で最弱?その理由を考察!│鬼滅の刃をねずこ推しが考察するブログ

鬼滅の刃の柱全員紹介!柱になった順番は?強さや死んだ順番は?

天元 引退後

本因坊家 [ ] ・・のに仕えた(とされる )日海(一世)を開祖とする家系。 「本因坊」の名は、算砂がを務めたのの一つに由来する。 「本因坊」はもとはして「 ほんにんぼう」と読んだが、囲碁の普及に伴って「 ほんいんぼう」と読まれるようになった。 以降5人の名人を含め名棋士を輩出し、江戸期を通じて囲碁四家元、将棋方三家の中で絶えず筆頭の地位にあった。 ・・・・などは、中でも高名である。 以後にもその権威は受け継がれるが、1938年(昭和13年)に二十一世が引退した際、その名跡をに譲渡し、家元制から実力制に移行することとなった。 1941年(昭和16年)に第1期本因坊戦が開催され、現在まで続いている。 本因坊家の外家としては、水谷家(水谷琢元、、跡目琢廉、跡目順策、四谷)がある。 歴代世襲制本因坊 [ ] 本因坊家歴代家元を以下に記す。 十九世秀栄、二十世秀元は再就位。 また、表の下にある4名は、跡目(次期家元)に指名されたものの、就位しなかった者である。 世数 棋士 生年 名人 段位 一世 1559- 二世 1611- 三世 1636- 準名人 四世 1645- 四世名人 五世 1690- 六世名人 四代目碁所 六世 1710- 六段 七世 1716- 六段 八世 1726- 六段 九世 1733- 七世名人 五代目碁所 十世 1750- 準名人 八段 十一世 1775- 準名人 八段 十二世 1787- 八世名人 六代目碁所 十三世 1803- 七段 十四世 1820- 準名人 八段 十五世 1850- 六段 十六世 1854- 六段 十七世 1852- 九世名人 十八世 1838- 準名人 八段 十九世 本因坊秀栄 再任 - - 二十世 本因坊秀元 再任 - - 二十一世 1874- 十世名人• 四世跡目 - 七段• 四世跡目 - 七段• 十一世跡目 - 五段• 十四世跡目 - 七段 本因坊戦 [ ] 創設 [ ] 本因坊戦 棋戦の分類 タイトル戦 開催概要 初回開催 1941 持ち時間 タイトル戦:8時間(2日制) 番勝負 七番勝負 主催 公式サイト 記録 現本因坊 (第75期) 最多優勝 二十五世本因坊治勲(12期) 最長連覇 同上(10連覇) 当初は、及び主催で、のち二社が合併して主催となる。 1934年(昭和9年)、学芸部長のが囲碁及び将棋の「実力名人戦」を企画し、1935年にが開始。 囲碁はの意向もあり本因坊戦とされ、1936年に秀哉はに本因坊の名跡を譲渡。 阿部の部下のが担当して本因坊戦は1939年(昭和14年)に開始することになった (本因坊戦が開始する前の東日及び大毎は「」及び本因坊秀哉の引退碁を掲載していた )。 最後の世襲本因坊二十一世の、本因坊の名は棋界随一の実力者が名乗るべきものであるという思いから、選手権制による本因坊戦「」が行われることになった。 囲碁におけるタイトル制度はこれが始まりであり、以後に始まる多くの棋戦のモデルとなった。 なお、戦にもがある。 実施方式 [ ]• 第1-5期までは、2年で1期の開催。 第6期から1年1期となる。 この変更が、本因坊就位直後の率いる独立の一因にもなった。 現在では、前年度の本因坊七番勝負敗退者と前年度の二位から四位までの4人に加え、予選トーナメントによって4人を選出し、計8名によるリーグ戦を行って挑戦者を決定する。 リーグ戦の五位以下は陥落となり、翌年度は再び予選トーナメントからの参加になる。 このため、入りやすいが陥落もしやすいという特徴があり、勝ち越しながら陥落した例が、第64期(2008-2009年)までの間に16回ある。 本因坊リーグは・リーグとともに三大リーグと呼ばれ、ここに参加することが一流棋士の証とされる。 六段以下の棋士が本因坊リーグ入りを果たした場合、七段に昇段する。 またリーグに優勝して挑戦権獲得が決まったら八段に、さらに本因坊位を奪取した場合九段へ昇段する。 リーグ戦の一位者はタイトル保持者と七番勝負を行い、優勝者を決める。 七番勝負は全国の有名旅館・ホテルを舞台に、各8時間、制による2日制で戦われる。 本因坊戦の歴史 [ ] 創設 [ ] 1934年、21世本因坊秀哉は引退にあたり、その名跡を全棋士に開放して実力制本因坊戦を開始することを決意した。 この背景には、秀哉が後継者として期待していたが夭折していたこと、で13世名人の引退と共に1935年から戦が開始予定だったことがあるといわれる。 なお、本因坊戦の創設にあたったのは、学芸部長の、およびその部下のである(なお、戦後になって、学芸部副部長で、後に作家に転じたが本因坊戦の運営を行ったこともある)。 1939年、準備が完了して、本因坊戦が開始された(方式など、詳しくはの項を参照)。 当時の高段者が参加して4度のトーナメント戦が行われ、その合計ポイントの上位2名による決戦によって争われた。 本命と見られていたは4度のトーナメントのうち2回優勝したが、規定によりポイント不足で涙を飲んでいる。 1位となったと2位のの間で六番勝負が行われて3勝3敗となり、1941年7月、規定により予選1位の関山が初代実力制本因坊の座に就いた。 1943年の第2期にはが挑戦者として登場したが、関山は神経性の胃痛と嘔吐に襲われ、第1局の途中で棄権。 橋本が第2期本因坊となった(方式など、詳しくはの項を参照)。 倒れた関山に代わり、弟子のが打ち継ぐという話も出たが、これは当然実現しなかった。 またこの時には「挑戦者決定リーグの第2位の者が、6ヶ月以内に本因坊に挑戦できる」という規定があった。 このルールによりが挑戦を行うと表明したが、橋本は対局料として3万円を要求し、これを木谷が工面できず挑戦を諦めるという場面もあった。 1945年にはが挑戦者に名乗りを挙げる。 物資の不足する中で勝負は行われるが、広島市郊外で行われた第2局がの被害に見舞われる()。 こうした中でも本因坊戦は打ち継がれ、3-3の五分になった後、1946年7月のの決戦によって岩本が新本因坊に就いた。 岩本は第4期にも木谷の挑戦を退け、防衛を果たす。 東西対決 [ ] 1948年のには関西在住の橋本宇太郎が挑戦者として登場し、4-0のストレートで本因坊を奪取する。 しかしこの時期関西地区の棋士は関東への反発が高まっており、さらにこの年から「本因坊戦を一期一年とする」という発表がなされた。 この発表は橋本の就位に合わせ、しかも橋本に何の断りもなくなされたことから、ついに関西棋士の反感が爆発した。 この結果、1950年に橋本を総帥としては独立を宣言することとなった。 橋本から本因坊を剥奪せよとの声もあった中、は新鋭・を挑戦者として送り込んだ。 満天下の注目の中、坂田は3-1と橋本を追い込むが「首を洗ってきました」と開き直った橋本は残りを3連勝し、逆転で防衛を果たした。 このきっかけとなった第5局の対局がのでなされたことから「昇仙峡の逆転劇」と呼ばれる。 この時橋本が敗れていれば、関西棋院は崩壊していたと見る者も多い。 高川9連覇 [ ] 翌1952年のには、が挑戦権を獲得する。 当時高川はまだ実績がなく、期待する者はほとんどなかったといわれる。 第1局で高川は歴史的見損じを演じて日本棋院側を落胆させるが、本人はこれで冷静になり、第2局以降を4連勝して予想外の奪取劇を演じた。 平明なだが非力と見られていた高川は、本因坊になってもその力は正しく評価されていなかった。 しかし高川は木谷・・・といった実力者の挑戦を次々に退け、連覇を重ねた。 特に木谷は毎年好成績を挙げ、計3度本因坊に挑戦しながら奪取は成らず、悲運の大棋士と呼ばれた。 1960年のにはが挑戦。 2-1とリードする。 第4局も藤沢優勢であったが、ここで高川は(無効なコウダテ)を使い、藤沢がうっかりそれに受けてしまうというハプニングが起きた。 藤沢はこれに気づいて精神的に動揺し、ミスを重ねて敗局。 高川はその後も連勝で押し切り、9連覇を達成した。 この9連覇において、高川は奪取を果たした第7期は4-1、島村利博を挑戦者として迎えた第10期を4-0で勝った以外は、全て4-2で勝利を収めている。 高川はいち早く碁に対応し、七番勝負の闘い方を心得た新時代の勝負師と呼ばれた。 坂田時代 [ ] 1961年、10年前に橋本に逆転負けを喫して以来挑戦権に縁のなかった坂田栄男がついに登場する。 41歳の坂田は積年の鬱憤を晴らすように4-1で本因坊を奪取、ここに坂田時代が幕を開けた。 1963年には名人も奪取、秀哉以来の「本因坊名人」が誕生した。 この時期坂田は圧倒的強さを発揮し、高川の2度のリターンマッチも粉砕、・藤沢秀行もストレートで降している。 1963年から67年にかけては挑戦手合17連勝という大記録を達成し、満天下にその実力を見せつけた。 7連覇を果たした坂田のタイトルを奪ったのは、新鋭だった。 すでに坂田から名人位を奪っていた林は、2度目の挑戦となった1968年の第23期、フルセットの激闘の末坂田から本因坊を奪い取る。 林はここに本因坊名人となり、覇者は交代した。 木谷門の時代 [ ] 翌1969年には、予選を這い上がってリーグ入りを果たし優勝した22歳の五段が登場するが、林の壁に阻まれ4-2で敗退。 しかし1971年には木谷門下第二の刺客・22歳のが挑戦権を獲得。 石田は「林さんの、いったいどこが強いんですか」と公言した上で林を降し、木谷門下の時代の先鞭をつけた(ただし数年後、石田は「林さんはこれまで戦った中で最強の人だった」と評価を改めている)。 石田は林の2度のリターンマッチも撃退。 第30期には坂田栄男が登場し、石田を3-1でカド番に追いつめるも、第5局終盤のでミスをし、以後連敗。 石田は劇的な形で5連覇を果たし、名誉本因坊(24世本因坊)の資格を手にした。 石田が6連覇を狙った第31期には、やはり木谷門下のが登場。 4-1で石田を降し、初の本因坊に輝いた。 武宮の豪快な宇宙流はファンの人気を集め、アマチュアの間にもがブームとなった。 しかし翌年、兄弟子のが挑戦者として登場。 加藤は第1局で「殺し屋」の本領を発揮、武宮の大石を撲殺して先勝すると、その勢いのままに4-1で本因坊位を奪取した。 加藤は3連覇を果たすが、第35期には武宮が本因坊を奪回、雪辱を果たした。 翌第36期にはが挑戦者となり、4-2で本因坊を奪取。 史上4人目の「名人本因坊」となり、若き第一人者として君臨することとなった。 翌年はライバルの挑戦を退ける。 小林はこれを含め4度本因坊に挑んでいるが、全て趙の前に敗れ去っている。 しかし第38期、林海峰が3連敗の後の4連勝という大逆転で13年ぶりの本因坊復位を果たした。 林にとって3連敗4連勝は10年前に石田相手に果たして以来2度目であった。 1985年の第40期には武宮正樹が林を4-1で降した。 3度の本因坊就位は史上唯一である。 武宮は相手の挑戦手合で「上大ゲイマ」の奇手を披露するなど、独創的なスタイルで4連覇を果たした。 趙治勲10連覇 [ ] しかし第44期には武宮の天敵・趙治勲が登場し、4-0のストレートで本因坊を奪取した。 翌年からは小林光一が3年連続で挑戦権を握るが、趙はそれぞれ 1-3、0-2、0-3からの大逆転勝利で防衛を果たし、小林の大三冠達成を寸前で阻止した。 この3年連続決戦は長く続いた両雄の角逐の頂点、さらには現代のハイライトともいわれている。 趙はその後も山城宏、、、さらに加藤正夫の二度の挑戦を退け、連覇を重ねた。 高川の記録を破る10期目にはを挑戦者に迎えるが、趙は珍しく「絶対に今回は勝つ」と宣言した上で王を撃破、前人未踏の10連覇を達成した。 これは囲碁のあらゆるタイトルの最長連覇記録として、2019年現在も破られていない。 平成四天王の時代 [ ] 1999年の第54期、がタイトル初挑戦ながら4-2で本因坊を奪取。 趙治勲の長期連覇時代は終わりを迎えた。 さらに2000年の第55期にはが奪取する。 2001年の第56期には「」で初めてが挑戦者となるが、フルセットの末、王が防衛を果たした。 その翌期の本因坊リーグは、若手4人、木谷門下4人の新旧対決の場となり、木谷門下のが挑戦権を得る。 2002年の王との第57期七番勝負で、加藤は2連敗後の4連勝という劇的な逆転で、23年ぶり、史上最年長55歳3か月で本因坊に復位した。 加藤以後、木谷門下からは本因坊位獲得者も挑戦者も出ていない。 2003年の第58期、張栩が再び挑戦者となり、4-2で本因坊を奪取。 これ以後、平成四天王たちが本因坊位を奪取・連覇するようになる。 張栩は翌2004年の第59期、の挑戦を退け連覇。 さらに同年、依田から名人位を奪取し、史上5人目にして最年少の名人本因坊となった。 2005年の第60期、四天王の中ではタイトル争いでやや遅れをとっていたが、リーグ初参加にして挑戦権を得る。 七番勝負では張栩を4-1で下し、本因坊を奪取。 以後、2006年の第61期で、2007年の第62期で依田紀基の挑戦を退け、3連覇する。 その間、2006年には張栩から名人位を奪取、史上6人目の名人本因坊となった。 3連覇を機に雅号「秀紳」を名乗った高尾に、2008年の第63期七番勝負で挑戦したのは、当時四天王の中で唯一無冠だったであった。 羽根は本因坊戦史上3例目の3連敗4連勝の大逆転を果たし、本因坊を奪取。 さらに翌2009年の第64期も、高尾のリターンマッチを制して連覇した。 2010年の第65期は、これまで本因坊位に縁のなかったが挑戦者として登場。 4-1で山下が羽根を押しきり、初の本因坊奪取を果たした。 これにより、平成四天王全員が本因坊に就位した。 翌2011年の第66期も、山下は羽根のリターンマッチを土俵際で退け防衛。 さらに同年、名人位を獲得し、史上7人目の名人本因坊となった。 井山裕太の時代 [ ] 2012年の第67期には、挑戦者として天元・十段のタイトルを引っさげたが初登場。 フルセットの末に山下を降して3連覇を阻むと同時に、史上最年少(当時)の三冠王に輝いた(23歳1か月)。 2014年の第69期には、初のリーグ入りであったがリーグを6勝1敗で終え、プレーオフで山下敬吾を降して、本因坊戦史上最年少(20歳0か月)での挑戦を決めた。 初の年下の挑戦者を迎えて井山の戦いぶりが注目されたが、4-1で伊田を撃破、3連覇を達成した。 2015年の第70期は、リーグ第3戦、全勝同士で迎えた山下を下した伊田が再び挑戦権を獲得するかと思われた。 しかし伊田は5-7戦を立て続けに落とし、伊田以外に全勝した山下が挑戦権を得た。 2012年から2015年の山下はリーグ戦勝率80%、この年1月の棋聖戦でも挑戦者として登場しており、最強の挑戦者として井山に挑んだ。 しかし第一戦から第三戦を井山が中押しで制し、第四戦を山下が返したものの、第五戦を再び井山が制し、本因坊戦4連覇を達成。 2016年には、井山は高尾紳路のリターンマッチを4-1で降し、二十六世本因坊の資格を手にした。 2017年には、タイトル戦初登場の本木克弥を4-0で粉砕。 2019年には本因坊初挑戦の河野臨に開幕2連敗を喫したものの、後を4連勝して8連覇を達成した。 2020年の第75期には、20歳で三冠に輝いた最強の挑戦者・芝野虎丸を迎えるが、4-1のスコアで防衛を果たした。 もとは 名誉本因坊と称し、他のタイトルの名誉称号はこれに倣ったものである。 「名誉本因坊有資格者永世称号」が制定され、現在の称号となった。 有資格者は下記の5人で、家元制最後の21世の後に続き、それぞれ22世~26世を名乗る。 ただしのみ10連覇の偉業を称え、60歳を待たずして「25世本因坊治勲」を名乗ることを許されている。 また9連覇を達成したは、日本棋院創立40周年を記念して、1964年から「名誉本因坊・高川秀格」を名乗ることを許された。 通常は本因坊位に在位している期間のみ号を名乗る。 タイトル戦に敗れて失冠すると号を名乗ることはできず、永世称号である名誉本因坊や他の名誉称号とは事情が異なる。 当初はから号を贈られていたが、本因坊薫和()以降、個人的に雅号を決める慣例ができた。 雅号は多くの場合本名から一字を取り、もう一字と組み合わせる。 もう一字としては、本因坊秀格()、本因坊秀芳()のように本因坊家ゆかりの「秀」の字を用いるのが主流とされる。 ただし、近年は号を名乗らない・何連覇後かに名乗る例が多くなっている。 は当初、周囲から雅号を勧められても時期尚早として固辞しつづけ、3連覇を機にようやく「本因坊秀紳」を名乗った。 または本因坊奪取直後のテレビ出演で、実力や実績が伴っていないとして雅号を名乗らない考えを示している(現時点において日本人棋士では唯一雅号を名乗った経験がない)。 は5連覇でを得てから名乗った。 外国出身のやは、実名を号としている。 なお、は初めての本因坊就位の際には「本因坊秀樹(しゅうじゅ)」を名乗ったが、本名と勘違いされたことから、二度目以降は「本因坊正樹(せいじゅ)」と号を変更している。 本因坊戦での歴代本因坊位 棋士名 初在位 号 読み 号の由来 1941 本因坊利仙 りせん 日本棋院から号を贈られる。 1943 本因坊昭宇 しょうう 日本棋院から号を贈られる。 1945 本因坊薫和 くんわ 1952 本因坊秀格 しゅうかく に因む。 1961 本因坊栄寿 えいじゅ の本名の「田村保寿」と、 当時の日本棋院総裁のに因む。 1968 本因坊海峯 かいほう 実名から。 1971 本因坊秀芳 しゅうほう 親交のあった書家・佐々木泰南 の命名。 1976 本因坊秀樹 しゅうじゅ 二期目以降は実名から。 1980 本因坊正樹 せいじゅ 1977 本因坊劔正 けんせい 同郷の有力後援者であったの名から。 1981 本因坊治勲 ちくん 実名から。 1999 名乗らず 2000 名乗らず 2003 名乗らず 2005 本因坊秀紳 しゅうしん 師匠の命名。 2008 名乗らず 2010 本因坊道吾 どうわ と出身地・北海道に因む。 2012 本因坊文裕 もんゆう と実名から一字ずつ。 の出身場所であるの大川定信住職の命名。 棋士名の 太字は、名誉本因坊または名誉本因坊の有資格者。 規定により予選一位の関山が本因坊に• 関山病気棄権• 順位は不明。 4位までは前年のリーグ残留者。 5位4人は予選トーナメントの勝者。 本因坊は前年の獲得者。 Pはプレーオフ。 全は全勝者、休は休場者。 5期以上のタイトルを獲得した棋士の名前には着色している()。 太字はタイトル獲得。 趙治勲、柳時熏、 加藤正夫、楊嘉源、片岡聡、 林海峰、彦坂直人、小松英樹、 趙善津、小林覚、王立誠、 王銘琬、山田規三生、石田章、大竹英雄、結城聡、大矢浩一、 羽根直樹、 張栩、宮沢吾朗、小林光一、 山下敬吾、依田紀基、三村智保、 高尾紳路、蘇耀国、潘善琪、溝上知親、中小野田智己、 武宮正樹、 井山裕太、瀬戸大樹、河野臨、黄翊祖、今村俊也、伊田篤史、余正麒、一力遼、本木克弥、三谷哲也、芝野虎丸、安斎伸彰、志田達哉、許家元、横塚力 参考文献 [ ]• 『』全3冊 校注、〈〉、1991年。 - 江戸時代の随筆。 本因坊についての逸話を収録。 『本因坊戦全集』(全7冊+別巻+呉清源特別棋戦2冊)毎日新聞社 1969-71年• 井口昭夫『本因坊名勝負物語』三一書房 1995年 脚注 [ ] []• 『碁』(法政大学出版会)では「信長・秀吉に仕えたこと」は否定されている。 『現代囲碁大系 別巻 現代囲碁史概説』()P. 『現代囲碁大系 別巻 現代囲碁史概説』(林裕)P. 『現代囲碁大系 別巻 現代囲碁史概説』(林裕)P. 主催紙の毎日新聞は9連覇も呼称の権利とする。 毎日新聞2016年6月30日 2016年7月1日閲覧• 読売新聞 2020年7月11日• ツイート. より 2020年7月11日閲覧。 坂田栄男『坂田一代』(日本棋院)P. 184• 木谷道場の書の指導者、石田の結婚の媒酌人• 江崎誠致『昭和の碁』(立風書房)1993年版、P. 228 関連項目 [ ]• 、、、、、、、、、、、、、、 外部リンク [ ]• 本因坊戦 1-3月 3-4月 5-7月 6-8月 9-11月 10-12月 10-12月.

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天元 引退後

生涯 [ ] 修行時代 [ ] 祖父は・の家臣 の浅原耕司。 父はの株を買って田村を名乗る幕臣となり、のちにに勤務した田村保永である。 東京のに生まれ、赤坂氷川町・神田猿楽町・牛込榎町などに転居しながら育つ。 叔父(父の末弟) は議員ででの弾劾演説で知られ、水産翁ともよばれた。 保寿は父の趣味の影響で10歳で 囲碁を覚えた。 1885年、11歳のときにに入塾し、に師事。 当時の住み込みの塾生は、塾頭の、道家富太、杉岡榮治郎、田村保寿の4人だった。 田村は、石井千治、杉岡榮治郎とともに 方円社の三小僧と呼ばれた。 1886年の秀甫の死去後、に師事。 1886年9級(初段)を認められる。 1891年に方円社を脱退して、秀甫の養子の村瀬彪と 「尋人会合所」という地方から上京する若者向けの事業を開こうとしたが、許可が下りずに頓挫、方円社は除名される。 千葉の東福寺で碁の相手や農業の手伝いをしたが、囲碁に戻ることを決心して翌年東京に帰り、の紹介により十九世門下に入門、四段を許され、1897年には五段に昇る。 1896年からは5歳年長の石井千治と5度の十番碁を打ち、当初は保寿の定先で始まったが、97年の第二次で互先となり、1907年の第五次では先二にまで打ち込んでいる。 秀栄は当時他の棋士達をことごとく先二以下に打ち込んでいたが、田村は唯一を保ち、継承の最有力候補と見られていた。 1904年には日本囲棋会発足にともない、秀栄最後の手合の相手として二番碁を打つ。 しかし秀栄は田村の事を嫌い、の実力が田村に及ばないことを認めながら雁金を後継者に望んでいた。 1905年に七段昇段、この時に雁金との対局をにするように頼み、それを秀栄に棋譜から見破られたこともあり、秀栄が寝込む様になってからは面会も許されなくなった。 田村の性格は極めて我が強く、また金銭にうるさい所があり、これが秀栄に嫌われた要因であろうといわれている。 本因坊、名人襲位 [ ] 1907年、秀栄は後継を決めないままに死去。 本因坊門では、後継者に実力第一の田村を推す派と、秀栄の遺志を優先して雁金を推す派に分かれ、前者は秀栄の弟で十六世本因坊であったや、後者には秀栄未亡人やなどがいた。 田村は囲碁研究会、雁金は敲玉会を結成。 結局、秀元が一旦二十世本因坊に就いて、1年後に田村に本因坊位を譲ることでこの事態を収拾し、田村は34歳で二十一世本因坊秀哉となる。 その後、1910年には五段と十番碁、因碩先で9局目で秀哉が7勝2敗で先二に打ち込むなど、すべての棋士達を先二以下に打ち込んだ。 また『新案詰碁死活妙機』(吉川弘文館)を出版。 に八段昇段。 (3年)、41歳の時にに推挙され、名実ともに棋界第一人者になる。 この頃には方円社のやも秀哉に迫って来ていた。 鈴木は1914年に十番碁で、鈴木二子から7局目までで先二、定先となって打切り、その後の碁戦では鈴木が先で2連勝した。 瀬越も1910年に三子から1920年の先まで秀哉に11連勝した。 1919年にはの招待で、、らとともに訪中する。 日本棋院総帥として [ ] 大正初期の囲碁界は、本因坊門、方円社及び(雁金準一、鈴木為次郎、瀬越憲作ら)との三派鼎立状態であった。 しかし各派合同機運が生まれ、1923年1月には本因坊家と方円社が合同してを設立するものの、4月にはふたたび分裂する。 しかし同年9月ので各派は大きな打撃を受け、分裂抗争の余裕すら失われた。 このため翌年に各派や関西の棋士などが集結し、を設立。 秀哉は棋院最上位者として定式手合()に出場する。 しかし雁金準一らは日本棋院を脱退し、を設立する。 両者はの社長仲介のもと、「大正大争棋」と銘打った大規模な対抗戦を開始する。 に行われたその初戦で、秀哉は雁金準一との主将決戦に臨む。 石取りの名局と謳われた激しいねじり合いの末に勝利し、不敗の名人の名を高めることとなった。 1933~34年、主催の「日本囲碁選手権手合」に優勝した五段と向先で対戦する。 読売新聞の大宣伝と、呉の斬新なによって大いに注目を集めたが、秀哉は2目勝ちを収める(後述)。 1936年、秀哉はに本因坊の名跡を譲渡。 世襲制ではなく選手権戦によって本因坊を決める本因坊戦が誕生する。 秀哉は後継者として愛弟子のを考えていたといわれるが、意に反し小岸は夭折した。 秀哉には自身の経験から実力第一位のものに本因坊の名を継がせたいという強い思いがあり、本因坊位の世襲制廃止に踏み切ったものといわれる。 1938年、との引退碁を打ち、1940年1月18日、実力制初代本因坊の決定を見ることなくの旅館で死去。 日本棋院葬が執り行われ、歴代本因坊が眠るに葬られた。 その後毎年1月18日は秀哉忌として、時々の本因坊位保持者や関係者による法要が行われている。 またその名は、日本棋院最優秀棋士に贈られる 秀哉賞(1963年創設)に残されている。 門下に鹿間千代治、、蒲原繁治、村田整弘、、、、、、、苅部栄三郎、、武田博愛らがいる。 また、も秀哉に薫陶を受けた。 代表局 [ ] 院社対抗戦 [ ] 1926年、日本棋院対棋正社の対抗戦の初戦において、雁金準一との主将同士の決戦に臨んだ。 下辺の白模様に突入した雁金の黒石を、秀哉が強引に取りに行ったことから大乱戦となり、満天下を沸かせるスリリングな一戦となった。 主催の読売新聞は各地で大盤を用いて速報し、観戦記に、など有名文士を配して宣伝に努め、部数を一挙に3倍に伸ばしたといわれる。 42ツグ(37) 44ツグ(35) 下辺黒1(43手目)とカドにところから乱戦が開始された。 秀哉は黒の眼を奪うが、雁金も包囲網の薄みをついて反撃、まれに見るねじり合いとなった。 白58(100手目)以降も戦いが続き、秀哉はここで発生したをきっかけに優勢とし、最後は雁金の時間切れ負けとなった。 呉清源との勝負碁 [ ] 本因坊秀哉(左)と五段(右)の対局。 1933年、呉清源は16人のトーナメントを勝ち抜いて「日本囲碁選手権手合」に優勝。 第一人者本因坊秀哉と先番で対戦することとなる。 時に秀哉59歳、呉20歳であった。 は各24時間、13回の打ち掛けをはさんで1934年1月29日に終了。 当初は単なる指導碁程度の趣であったが、読売新聞の大宣伝により次第に日本対中国、旧権威対新勢力の大勝負へと事態はヒートアップしていった。 10月16日に・の鍛冶橋旅館にて対局開始。 日本中の注目が集まる中、呉は第一着に本因坊家の禁手とされる打ち。 3手目に、5手目にという大胆なを披露し、満天下を沸かせた(の項参照)。 159手目まで進行した後、13回目の打ち継ぎ開始直後に、秀哉は呉の黒地に強襲をかける歴史的妙手を放つ。 呉も「受けの妙手」と呼ばれたで応えて崩壊を免れるが、この攻防の間に秀哉は右方で黒5子を捕獲し、優勢を決定づけた。 結局この碁は、この妙手が働いて秀哉の2目勝ちに終わった。 しかし後日、この妙手は秀哉の弟子であるが案出した手であるという説が流れており、今もって真相は不明のままとなっている。 秀哉160手目の妙手(白1)と、受けの妙手161手目ツケ(黒2) 引退碁 [ ] 1938年、64歳の秀哉は現役引退を発表し、リーグ戦を勝ち抜いた木谷實を相手に引退碁を打つこととなった。 史上最長となる持ち時間40時間、史上初となる制で行われ、6月26日に開始された。 20回の打ち掛けをはさみ、途中秀哉の入院などもあり終局まで打ち通せるか危ぶまれもしたが、12月4日に終局。 結果は木谷の5目勝ちとなった。 この対局の観戦記を担当したは、後にこの対局戦での秀哉の戦いぶりや、その死に様を小説『』として描いている。 死活妙機 [ ]• 「新案詰碁 死活妙機」として1910年1月により出版された。 明治時代の「」に掲載された懸賞詰碁120題を増補訂正して一巻にまとめたもの。 緒言に「本書の詰物は古人の打碁及び著者の打碁に成りたる実戦上のものを基礎としたるものにして、故さらに作りたる珍瓏的のものにあらず、専ら実用を主としたればなり」とあり、実戦を基礎とした作品集である。 が「名作ベストテン」の6位に位置づけたほどの明治の代表的な歴史的著作であり、その特徴として的な難解さで知られる。 1931年に大阪屋号書店より再版され、現在では1981年に山海堂から出版された版が入手可能である(2004年改訂版あり)。 著作 [ ]• 囲碁の礎 : 新撰碁経 稲垣兼太郎 著,本因坊秀哉 編 博文館 1909• 新案詰碁死活妙機 本因坊秀哉 著 吉川弘文館 1910• 素人棋鑑 : 実戦詳解 上 土屋秀栄 稿,本因坊秀哉 補訂 中央囲棋会 1910• 囲碁珍瓏発陽論 井上因碩 著,本因坊秀哉 校 大野万歳館 1914• 囲棋神髄 本因坊秀哉 講述,広月凌 編 中央囲棋会 1916• 囲棋神髄 日,月,火,水,木,金,土 本因坊秀哉 講述,広月凌 編 中央囲棋会 1916• 旧幕府御秘蔵碁戦 本因坊秀哉 著 大阪屋号[ほか] 1917• 大正棋鑑 : 名人打棋 本因坊秀哉 講評,広月絶軒 編 東京中央囲推会関西支部 1923• 互先定石 上中下 本因坊秀哉 著 誠文堂 1930-1933• 置碁定石 本因坊秀哉 著 誠文堂 1930 名人囲碁全集 ; [第1]• 囲碁実戦軌範 本因坊秀哉 著 誠文堂 1931 名人囲碁全集 ; [第3]• 新案詰碁死活妙機 本因坊秀哉 著 大阪屋号書店 1931• 二、三、四子布石法 本因坊秀哉 著 誠文堂 1931 名人囲碁全集 ; [第2]• 名人囲碁講座 第1 実戦詳解素人碁鑑. 上,下 本因坊秀栄, 本因坊秀哉, 広月絶軒, 平凡社 1933• 名人指導碁全集 本因坊秀哉 著 誠文堂 1933• 名人囲碁講座 第2 名人指南碁. 互先局 本因坊秀哉, 広月絶軒, 平凡社 1934• 名局解説 上巻 本因坊秀哉 著 誠文堂新光社 1937 名人囲碁全集 ; 続 [2]• 本因坊棋談 本因坊秀哉 著 岡倉書房 1937• 大斜定石 上下 本因坊秀哉 著 誠文堂新光社 1939 名人囲碁全集 ; 続 [1]• 打碁選集 上下 本因坊秀哉 著 誠文堂新光社 1939• 死活妙機 : 新案詰碁 本因坊秀哉 著 大阪屋号 1939• 大斜定石 本因坊秀哉 著 誠文堂新光社 1940• 本因坊秀哉全集 第1巻 秀哉会 編 博文館 1941• 名人指南碁 互先局 四子局 六七子局 本因坊秀哉 著,広月絶軒 編 平凡社 1946• 名人囲碁講座 第2 名人指南碁. 二・三子局 本因坊秀哉, 広月絶軒, 平凡社 1947• 秀哉名人囲碁全集 第1-5冊 本因坊秀哉 著 秀哉名人囲碁全集刊行会 1950• 詰碁・死活妙機 本因坊秀哉 著 大阪屋号書店 1952• 秀哉名人傑作集 本因坊秀哉 著,宮下秀洋, 高橋重行 [編] 日本棋院 1957 囲碁文庫• 名人本因坊秀哉 秀哉会 1972• 本因坊秀哉全集 全6巻 秀哉会 著 日本棋院 1974• 死活妙機 本因坊秀哉 解説,囲碁研究会 編集 山海堂 1981• 『死活妙機』山海堂 2004年(1981年)(初版『新案死活妙機』1910年) ドラマ化 [ ] 1963年、NHKテレビにて、『「名人」~21世本因坊秀哉~』として秀哉の人生がドラマ化された。 全1回。 企画:• 脚本:• 演出:• 本因坊秀哉:• 秀哉夫人:• その他出演:、 関連項目 [ ]• 秀哉が本因坊位の世襲制廃止に踏み切ったのとほぼ同時期に将棋名人の世襲制廃止を実施した。 関根は、実力日本一でありながら十二世名人が長命(数え91歳で死去するまで名人だった)であったためなかなか名人になれなかった経験を持っていたため、実力一番のものが名人に着くべきという考えをもっていた。 脚注 [ ]• 榊山潤『新編 囲碁名言集』(教養文庫)P. 『本因坊自伝』• 従来の記述は「に生まれる」とあったが、『本因坊自伝』の記述にあわせた。 『本因坊自伝』• 『本因坊自伝』• 『本因坊自伝』• 『本因坊自伝』• 『本因坊自伝』• 小堀啓爾「日本棋院物故棋士名鑑」(『1993年度版囲碁年鑑』日本棋院、1993年)• もっとも打ち掛けの碁を本因坊一門が集まって検討し、対策を練るということは昔から行われていた。 (『以文会友』白水社 )• 坂田栄男『坂田一代』(日本棋院)P. 227 参考文献 [ ]• 木谷實『囲碁百年』平凡社 1968年• 『 1 明治・大正名棋家集一』講談社 1981年• 本因坊秀哉『本因坊自伝』Kindle版 外部リンク [ ]• - (2010年12月17日アーカイブ分)•

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宇髄天元の継子は吾妻善逸?2人の関係と音柱を引退したその後について

天元 引退後

宇髄天元の声優や身長などのプロフィールは? 宇髄天元のCVを担当する声優は小西克幸さん! 派手好きな洒落た男で腕っぷしが立つ。 そんな伊達男の宇髄天元のボイスを担当するのは、 小西克幸さんです。 小西克幸さんは、アニキ系のキャラクターやイケメン系のキャラクターのような、 カリスマ性のある声に定評がある声優さん。 代表的なキャラクターとしては 『天元突破グレンラガン』にて主人公のアニキ分として活躍した 「カミナ」など、熱く男前なキャラクターを演じています。 意外な役どころとしてはアニメ版 『ポケットモンスター』でポケモン達の鳴き声を担当するなど、活躍の幅が広い実力派の声優さんです。 アニメ版『鬼滅の刃』では、柱達が集う「柱合会議」のシーンで初登場を果たし、自身に満ち溢れた派手派手なカリスマのあるボイスを披露してくれました。 しかし、 アニメ版はまだ原作漫画における宇髄天元のメインパートまで進行していないため、残念ながらあまり出番は多くありません。 アニメ第2期(予想)での活躍が楽しみですね。 かなり大柄で屈強な肉体を持つ宇髄天元 初登場時の存在感からもわかるように、かなり高い背丈や丸太のような派手な筋肉がチャームポイントでもある宇髄天元。 公式ファンブックによると、 身長はなんと198cmで体重は95kgとのこと。 天元はかなり恵まれた体格を持っていると言えますね。 天元のスタイルの良さは、上弦の陸・妓夫太郎が嫉妬するほど。 そして、鬼滅の刃は大正時代を舞台にしている物語であるため、 当時の成人男性の平均身長は160cm前後と想定されます。 そのことを踏まえると、天元はかなり突出して目立つ存在だったのではないかと思われます。 年齢は23歳で性格は神を自称するほどの俺様系 【 】 音柱、宇髓天元登場!! その話もいいんだけど、このコマのカナヲちゃんめっちゃかわいい!! 天元様を皆で罵倒する時に、声こそ出してないけど、拳を振り上げて意思表示してるのめっちゃかわいくない!!?!!?!?!??!!!? 天元様「あっそォ」はかっこいいよ — カンタリス@愛犬ベルちゃん cantharis00 宇髄天元は 10月31日生まれの23歳です。 鬼殺隊の柱達の中では年齢が高い方で、 27歳である岩柱・悲鳴嶼行冥に次いで上から2番目となっています。 柱の面々は個性的な性格をした人物が多いですが、天元もかなり個性的な性格。 任務のためとはいえ、ろくな説明もせずに蝶屋敷から女の子達を連れ去ろうとしたり、俺は神だと言って憚らなかったり、生意気な隊士には容赦なくボディブローで黙らせるなど、荒々しい部分が目立ちます。 わかりやすいワンシーンとして、任務地へ赴く際には炭治郎達に対して次のように言い放ちました。 「いいか?俺は神だ!お前らは塵だ!」 「まず最初はそれをしっかり頭に叩き込め!ねじ込め!」 「俺が犬になれと言ったら犬になり 猿になれと言ったら猿になれ!」 「猫背で揉み手をしながら俺の機嫌を常に伺い全身全霊でへつらうのだ」 まさに傲岸不遜といった振舞いですが、真剣な場面では一般の人々や部下達の命を第一に思いやる、天元の人としての芯が垣間見られます。 また、 「俺は嫁を助けたいが為にいくつもの判断を間違えた」と己の失態は素直に認め、部下に危険が及ぶと判断すれば速やかに撤退を促す冷静さも持ち合わせているキレ者でもあります。 粗暴な性格と思われがちであるものの、己の過ちを認める度量や冷静な状況分析、そして命を懸けて人々を守ることを第一に考えた立ち回りから、柱として君臨するに値する資質は十分に兼ね備えているようです。 口癖は「派手」 気分は宇髄天元様 — 小紫 凛 新人クリエイター系酒呑みVTuber?? 当人の基準では派手であればあるほど良いものであり、何かにつけて派手であることを好みます。 逆に、邪魔が入ったときや気に入らないものに対しては「地味に引っ張るんじゃねぇよ」と言うなど、何かを貶める際には「地味」という言葉を使用する場面が多く見られました。 自身のことを 「派手を司る祭りの神」と自称するように、容姿や戦闘スタイルなどにおいて派手に対するこだわりが一層強い人物です。 宇髄天元は過酷な世界で生き延びてきた元忍者 忍時代からノースリーブ金の腕輪だった天元さんw しかも派手派手な石付きの額当ても姉弟でお揃い…?ひょっとしてみんな派手好き? — さすに SSRAPSHOT 派手できらびやかな姿を好む傍ら、 意外にも宇髄天元は忍の家系で生まれ育った人物。 しかし、天元を取り巻く環境は過酷そのもので、忍という生業で衰退の一途を辿る一族を案じ、焦りを覚えた天元の父が子供たちに課す訓練は極めて厳しいものでした。 訓練の過酷さは9人いた天元の姉弟が7人も亡くなるほどで、生き残ったのは天元自身と2つ年下の弟のみ。 その弟や父は人の命をなんとも思わないような無機質な性格で、天元自身は 忍として求められる生き様と自分の価値観との違いに苦しみ、自らが抱える矛盾や葛藤と戦い続けていました。 そのような状況下で 「お館様」である産屋敷 耀哉(うぶやしき かがや)に出会い、鬼殺隊に迎え入れられます。 天元は自らの価値観を殺すことなく生きることができる鬼殺隊に居場所を見出し、自身にとって 最大の理解者となった産屋敷に心酔し、鬼殺隊士として戦いの場に身を置くことを決意したのでした。 忍獣「ムキムキねずみ」を使役する 来年はねずみ年? エメリヤ? クランベリーVery? その名の通り筋肉がムキムキなねずみで、まるで天元のように筋肉が発達しています。 特殊な訓練を受けていることによって非常に知能が高く、 伊之助の呼び声にも応えて日輪刀を運び届けるなど、上弦の陸との戦いではサポート役としてその力を遺憾なく発揮しました。 容姿端麗であることのほかに、 トークスキルが非常に高いそうです。 もはや非の打ち所がないステータスですね。 宇髄天元には嫁が3人!その理由はかっこいいからではなく… 嫁が3人いる理由は宇髄家のしきたりによるもの 宇髄に惚れてしまった。 嫁3人いるけど。 — まあや? かと言って、単純にモテるから嫁が3人いるというわけでもないんだそう。 これまたファンブックの鬼殺隊報で明らかになったことですが、宇髄一族の男子は15歳を契機として一族の長が選んだ3人の女子と婚姻関係を結ぶというしきたりになっているそうです。 作中にも天元の3人の嫁が物語のキーパーソンとして登場しますが、共通点としてみんな美人でスタイルが良い「くのいち」という特徴があります。 性格は三者三様で、嫁同士であっても複雑な関係性などはなく、仲は良好な様子。 そんな3人のお嫁さんの特徴をご紹介したいと思います。 しかし、とても騒がしく臆病で、よく目に涙を浮かべながら泣きわめいているシーンが見られました。 しかし、須磨「花魁」と呼ばれていたように、 潜入任務で遊郭で活動している間の遊女としての格はなんと最高位の「花魁」でした。 花魁とは美貌・教養・芸事すべてを身に着けている必要があるため、須磨自身はかなりのスキルを持っているということが窺えます。 戦闘におけるくのいちとしての力量は未熟な部分が多いかもしれませんが、美貌や繊細な技術に長ける人物でした。 上弦の鬼に食料として捕らえられていたところを伊之助に救われますが、救助された後も捕まっていた人たちを守るべく率先して戦うなど、自らの使命を全うする熱い心を持っています。 何かと手がかかりがちな須磨に対しては、まるで厳しい姉のように発破をかけることもしばしば。 致命傷を負った天元が最期の言葉を遺そうとしたときに須磨が泣きわめいて天元の言葉を遮ってしまいますが、その時には 「口に石を詰めてやる このバカ女!」と言って激しく怒りました。 その際は 本当に口の中に石を詰め込んだようで、夫の死の間際という悲痛でシリアスなシーンのはずがギャグシーンに変わってしまったというのも面白いエピソードの一つ。 なお、夫である天元は禰豆子の血鬼術のおかげで死を回避しますが、帰還後は宇髄夫婦4人で鬼殺隊のサポートに回っています。 大人しそうな風貌でありますが、夫の天元をサポートすべく上弦の陸・妓夫太郎に対して毒クナイの投擲で直接的な攻撃を仕掛ける胆力を持つ人物でもあります。 雛鶴は3人の嫁の中でも特に天元を信頼している様子が窺えます。 天元が3人の嫁に対して言った「 任務遂行より命を大事にしろ」という言葉に対して、同じく天元の嫁である「まきを」は「自分の命なんて大切にしてたら大した仕事なんてできないけどいいの?」と、今まで植え付けられてきたくのいちとしての存在価値と反する命令に困惑してしまいます。 しかし、雛鶴は「 いいんじゃない?天元様が言うなら」と一言。 これは楽観的に言ったものではなく、天元に対して全幅の信頼を寄せていることの表れと、天元の価値観を慮った上での発言であったと言えます。 落ち着いていて思慮深いその性格から、騒がしい須磨とまきをの二人をたしなめる優しいお姉さんのような役割を担っていることが容易に想像できますね。 他の柱達と比較した宇髄天元の強さは? 俺に才能なんてもんがあるように見えるか? 俺程度でそう見えるなら テメェの人生幸せだな — 鬼滅の刃名言&技紹介bot Kimetubot 鬼舞辻無惨が率いる上弦の鬼達の顔ぶれは、なんと113年もの間、倒されることなく鬼殺隊や民間人を屠り脅かし続けてきました。 そして 上弦の陸は、兄妹合わせて今までに20人以上の歴代の柱達を殺して喰ってきた強者。 そんな鬼を倒した天元は確かな実力を持ち合わせてはいるのですが、当人は自分の鬼殺隊士としての強さに関しては厳しく謙虚な考えを持っています。 上弦の陸・妓夫太郎から「才能がある」と妬まれたときには「 俺程度でそう見えるならテメェの人生幸せだな」と嘲っています。 己の力不足ゆえに守り切れなかった人々がいることを悔やんでいたり、鬼殺隊に入隊して天賦の才を持って生まれた人物を目の当たりにしてのことと思われます。 岩柱・ 悲鳴嶼行冥との対比は? 天元は岩柱・ 悲鳴嶼行冥に対して「 得体の知れねぇ奴」と底知れない畏怖を感じている様子を窺わせます。 悲鳴嶼行冥は現在の鬼殺隊の最古参の柱として、他の柱を含む鬼殺の隊士からの信頼を一身に集めています。 天元が言う生まれながらにして才能を持った人物の一人であり、伊之助などの感覚が鋭い一般隊士も間違いなく鬼殺隊最強であると感じているようです。 霞柱・時透無一郎や恋柱・甘露寺蜜璃との対比は? 時透無一郎も天元が言う才能を持って生まれた人物の一人で、壮絶な努力も伴ってのことですが、 刀を握って二か月で柱まで登り詰めるほどの実力者です。 その実力は、上弦の陸と戦って左目と左手を失ってしまった天元に対して、時透無一郎は上弦の陸より格上であるはずの 上弦の伍・玉壺を単独で撃破した上に、五体満足で帰還し継戦に影響を及ぼさないほどでした。 甘露寺蜜璃に関しても生まれながらにして 常人の8倍の筋肉密度を持つという超人体質で、その力は鬼狩りにおいて攻守ともに遺憾なく発揮されています。 甘露寺蜜璃はさらなる鍛錬を積んだ炭治郎らとともに上弦の 肆・半天狗と戦うことになりますが、状況は特殊といえど時透無一郎と同様に 五体満足で勝利の帰還を果たしました。 炎柱・煉獄杏寿郎との対比は? 古くから炎の呼吸を伝承し、代々「炎柱」を輩出する煉獄家の長男として持って生まれた才覚とたゆまぬ鍛錬で真っ当に柱としての務めを果たす 煉獄杏寿郎。 迷いがなく溌剌とした物言いや技術の研鑽、真摯に鬼殺隊としての務めに向き合い続ける姿勢から、柱達からの信頼も厚い人物です。 天元も炎柱・煉獄杏寿郎に対してはリスペクトさえ感じている節があり、「 上弦の鬼には煉獄でさえ負けるのか」、「 俺は煉獄のようにはできない」といったセリフなどから、相当な信頼を寄せているようです。 宇髄天元は冷静に実力を測れる人物である 天元は自分の才能を客観視した上で、すべての命を守り切れないとわかっているからこそ、 明確に守るべき命の順序(第一に3人の嫁、次に堅気の人間、そして自分)をはっきりと決めているのかもしれません。 天元自身の考えや他の隊士の戦果を見る限り、天元は鬼殺隊最強とは言えないかもしれません。 しかし、天元は強さのみにこだわらずに大切な人の命を守り切るということを至上とし、事実として三人の妻を救い出して帰還することに成功しました。 名言から見る宇髄天元の魅力 「口先だけでなくド派手に証明してみせろ」 ド派手に証明してみせろ — さすに SSRAPSHOT 半年に一度の柱合会議に際して、鬼である禰豆子を連れた炭治郎の処遇を決めるべく柱達が意見を口々にしましたが、多くの柱が「 すぐに殺すべきだ」と言い放ち、鬼殺隊当主である産屋敷耀哉の言葉を待たずに、炭治郎と禰豆子を隊律違反を犯したものとして処分しようとしていました。 しかし、そのような中でも天元は炭治郎の言葉を汲み、「 人を喰ってないことと、これからも人を喰わないことを証明しろ」と問い掛ける場面も。 おそらく鬼が人を襲わないわけがないという考えのもとでの発言かとは思われますが、双方向での意見をもとに処遇を判断しようという理性的な人物でもある一面も見られました。 そんなところに宇髄天元が颯爽と現れ、一瞬で全ての帯を切り裂いて人質全員を無事救出するのでした。 ここで、鬼の本体を倒しに行くべく言った「 こっからはド派手に行くぜ」というセリフは、柱としての戦いの火蓋が切って落とされたかっこいいキメ台詞です。 一見すると乱暴な振る舞いで、死んでも戦えと言いそうな印象を持たれかねない天元。 しかし本当のところは、生きたいと思う気持ちは恥ずかしいものではなく大事にすべきものだという天元の信念によってかけられた言葉でした。 次々と死んでいった姉弟達や、冷酷なまでに無機質な父などに囲まれた環境でこの信念を持ち続けるのは、相当な苦労を感じたものと思われます。 この信念が 一貫してブレずにすべての行動に反映されている点が、天元の人としての魅力でもありますね。 ここで天元が言う命の順序とは、「 1番に妻たちの命、2番目に堅気の人間の命・3番目に自分の命」と、守るべき命の優先順位です。 「鬼滅の刃」の世界観の中では、忍とは任務のためなら決して己の命は顧みず、仲間や部下の命すら手駒に過ぎないという無機質で冷酷な価値観こそが、忍として正しい姿であるとされる世界だそうです。 その中で天元のように大切な人を慈しむ価値観を持った人物は異端でしたが、価値観の矛盾に苦悩しながらも天元の信念は折れることなく、自身の行動原理として根付いています。 しかしそれは当然ながら自ら望んで行ったことではなく、忍として求められるが故に行っていたもの。 そして前述したとおり、忍とは無機質で冷酷であるべきと言われながらも「 俺はあんな人間になりたくない」という気持ちを持ち続けていた天元は、忍という界隈に居場所を見出せずに苦悩していました。 人の命を守るために戦いたいと考えた天元は、出会うまでの詳細な経緯は不明ですが「お館様」と呼ばれる産屋敷家当主の耀哉と出会います。 耀哉は天元が抱え続ける 矛盾や葛藤への理解を示した人物であり、そんな天元に対して「 ありがとう」「 君は素晴らしい子だ」と言葉をかけ、天元を鬼殺隊という場所に迎え入れました。 天元にとって鬼殺隊へ迎え入れられるということは、自分が生きる場所をもらったと同然とまで考えており、「俺の方こそ感謝したい」と言って耀哉に忠誠を誓い、鬼殺隊としての任に従事しています。 上弦の鬼との死闘で重傷を負った宇髄天元は柱を引退 引退後は育手として鬼殺の隊士の基礎体力を鍛える鬼教官に 眼帯の天元様かっこいい… — さすに SSRAPSHOT 上弦の鬼との戦いでは、 左目と左手を失うほどの後遺症を負ってしまった天元。 柱として前線で戦うことは難しいと判断して引退した後は、隊士を鍛える育手としてサポートに回ることになりました。 作中で登場している他の代表的な育手としては、炭治郎の師匠として水の呼吸を教えた「鱗滝 左近次(うろこだき さこんじ)」などがいます。 しかし、天元はまだ彼のように 弟子を取っている描写はなく、柱稽古などで隊士らの基礎体力向上のために日夜激しいしごきをしているようです。 その時の表情たるや、 久しぶりに親戚の子供に会ったかのような笑顔が印象的です。 当初は、炭治郎や禰豆子に対して「鬼を連れた怪しいヤツ」「生意気な隊士の一人」程度にしか思っていなかった天元ですが、上弦の鬼との戦いを経て評価は一変したようです。 炭治郎達は様々な戦闘経験を有しつつも、まだまだ新米。 そのような中で、心身の限界を越えつつも期待以上の働きをし、サポートがあってのことではありますが上弦の鬼の首を斬り落としたという功績はとても大きいものです。 さらに天元は、 自身のみならず妻の命までもを炭治郎と禰豆子に救われていますので、二人の事を気にかけてしまうのもごく自然と言えますね。 宇髄天元の活躍に期待はできるのか? 雷の呼吸を使う柱の鳴柱がおらず善逸の師が不在 現時点では、雷の呼吸は五大流派の一つでありながらも 柱が不在。 そのような状況下で、雷の呼吸から派生したと言われる音の呼吸に関しては注目せざるを得ません。 また、雷の呼吸を使用する我妻善逸は、天元に対して並々ならぬ敵愾心を抱いています(主に容姿や女性絡みですが)。 善逸と天元の関係性はともかくとして、浅くもない二人の関係は呼吸という観点からも気になるところです。 今後の物語の展開次第ですが、まだまだ戦闘を盛り上げる要素は隠されていますね。 この技は戦闘を通じて 相手の動作によって生じる律動を音として捉え、クセを読んで攻撃の先読みをするというものです。 この特技は上弦の陸との戦闘において使用しましたが、長時間猛毒に冒された上に左手を失った後での使用にも関わらず、相手の攻撃を全て捌き切るという神業をやってのけました。 片腕を失ったハンデを覆す逆転の一手になり得るこの特技で、復活して活躍する天元の姿を見てみたいところです。 もしもこの流れを汲むとしたら、玉壺が倒され空席となった上弦の伍の後釜として天元の弟が登場する可能性もあります。 天元の弟は、忍としての師である父の生き写しと言われるほどの実力を備えているようですので、柱である天元と同等クラスの実力者と考えるとかなり手強い敵になるのではないでしょうか。 作中では、産屋敷耀哉が亡くなった後に当主の跡を継いだ息子の「 産屋敷 輝利哉(うぶやしき きりや)」を護衛するために、 引退した天元や元炎柱である 煉獄槇寿郎が産屋敷邸に駐屯しています。 産屋敷一族の徹底的な殲滅を目論んだ無惨が刺客を送るとすれば、空席となっていた上弦の伍を引き継いだ鬼が現れる可能性が高いものと思われます。 そうなると、天元や元炎柱が産屋敷邸で護衛をしているという意味も俄然強まってきます!今後の天元の活躍も、要チェックですね。

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