事件備忘録。 そそのかした少女の母の、正気の沙汰~熊谷・男女4人殺傷事件~

忘却探偵シリーズ

事件備忘録

takuya 固定ページと投稿ページ以外ってどこのことだか分からないが設定しておく 実はこのOGP設定が終わって1週間くらい経ってサイトURLを送る機会があった。 あんまり教えたくないんだがスーパーお世話になってる人だから特別にサイトトップページを送ってみたんだよな。 そしたら冒頭の画像なしパターンだったわけだ。 話がバースの頭に戻っちまって絶望したわけだが、どうやら画像を別途アップロードしておかないといけないらしいってことを知る。 固定・投稿以外のアイキャッチ設定 step 1画像アップロード Facebookの項目に含まれてるみたいな位置にあるが、どうやらこれは関係ないようだ。 画像青線を引いたところにも( トップページ含む)って記載があるし、これを設定しておけばシェアされた時にこの画像が表示されるってわけだ。 step 2表示確認(派手に失敗) いっくん と言っても方法はシンプルで投稿画面から「 アイキャッチ画像」と「 設定に関わらずアイキャッチ挿入」にチェックするだけの簡単なお仕事だ。 これでアイキャッチに設定した画像がURL添付した時に表示されるわけだ。 でも俺はここで疑問に思った。 いつも記事を投稿する時にアイキャッチ画像指定してるけど、 設定に関わらずってなんだ?ってな。 アイキャッチとサムネイルの違い(余談) 俺は アイキャッチ=サムネイルだと思っていた。 それも間違いなんだが、どうやら アイキャッチ設定というものがあるらしく、そいつを設定すると自動で記事タイトルの下に出現するらしい。 step 2アイキャッチ設定にチェック このセッティングをしておけば、アイキャッチ画像に指定した画像がきっちりと画面にいっぱいに広がったいい感じの状態で表示される。 takuya アイキャッチを自動挿入すると固定ページに設定した画像もページ上にお目見えしちゃう問題。 これは由々しき事態であると判断した俺は、アイキャッチ自動挿入をやめてこれまで通り自分で挿入してビジュアル感を出すことにした。 そして、固定ページに関しては「 設定に関わらずアイキャッチ挿入」でURLを送った時に表示される設定にすることにした。 (これが正解なのか分からんけど) まとめ:OGP設定は確実に終わらせておこう サイトトップページをどうやって作ればアイキャッチ設定をしてもビジュアルに変化なく任意の画像を表示させることができるのかは現段階では分からない。 今回は以上だ。

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被害を強調する妻と、佇むだけの夫の戯言~富士見町義妹殺害事件その②~|事件備忘録@中の人|note

事件備忘録

1988~89年に起きた「連続幼女誘拐殺人事件」犯人逮捕により、一連の報道は過熱。 マスコミは特異な事件として連日報道、マンガ・アニメなどのメディアが犯罪の誘因と視聴者に印象を与えかねないフレームアップも有り、その影響は今も続いています。 この事件直前には、が青少年条例により有害と指定された「図書」販売規制を合憲と判決。 そして、80年代末までに長野県を除く全府県で青少年条例が制定されるなど、創作物を取り巻く環境が厳しくなっている中、事件の発生を受けて、 1990年ののを発端とする「規制運動」の動きは大阪にも波及、この時期より「青少年に有害なコンテンツ」の追放運動は全国で急速に進み、有害と指定された創作物の表現・販売規制は強化されていきます。 この様に「」と見做された創作物の・排斥の動きが多方面に及んでいた時期、 1991年、男性向け同人誌を委託販売していた都内の書店 コミック高岡・漫画の森:新宿店・ の店長及び書店員が「わいせつ図画販売目的所持」で警察の取り締まりの対象となり、また美少女系同人サークルも摘発を受けました。 この他にも印刷業者を含む総計75名が逮捕またはされる事件となり、同人界のみならず出版業界にも大きな影響がでました。 これら一連の流れの中、「追放事件」勃発 を管轄する千葉西警察署に届けられた拾得物に無修正同人誌が含まれていた事態を重く見て、同警察署は「準備会」と「」に事情聴取を行いました。 この事情聴取を受けて、既に準備会によるの開催告知、サークル申し込みは済んでいた状況でしたが、は使用拒否を準備会に通告。 史上最大と言われる開催危機が訪れます。 これを受けて「準備会」は「晴海東京国際見本市会場」に会場使用を依頼、見本誌のチェック・印刷会社への協力依頼を含む充分な対策を取ることで1991年8月の「40」は予定通り開催されましたが、 その後も「コミックシティ中止事件」など、同人界への余波は続きました。 また1991年に目を向けると、 出倫協が「」マークの制定、「コミック特別委員会」を設置。 有志議員がポルノコミック対策議連を結成、法規制を示唆。 これらの動きを受けて、出版大手三社が指定コミックスを出荷停止、絶版、回収。 と、この時期から漫画を含む創作物の規制はさらに厳しくなって行きます。 そして、翌年の1992年、これらの動きに反発して有志の編集者・有名漫画家が「コミックを守る会」を結成。 出版社もを中心に、法規制反対を訴える「コミックを守る会」の意見広告を掲載するなどの運動を展開。 この広告掲載は大手出版社十数社、四十誌以上が参加する大きな運動となりました。 この「コミックを守る会」の活動により、を容認した報道を行っていたマスコミもに慎重、あるいは批判的な立場をとるメディアが出てくるなど、動きに変化が見られました。 しかし、1992年3月26日、「コミックを守る会」のひとりである氏のコミックス『Blue・光文社』が、東京都の「不健全図書」として告示。 守る会のを狙ったかの様な指定に波紋は広がり、光文社労組は廃棄などの自粛を批判し、会社を追求する事態となりました。 また、政府は事業税の見直しの中で「文化的出版物」と「非文化的出版物」を選別し、非課税対象と課税対象の書籍を線引きしたいと書籍協会に提案します。 出版社への事業税減免撤廃の経過措置延長と引き換えに出版業界に「さらなる自主規制」を要求する。 政府の出版業界への圧力と取られ兼ねない、いえ、圧力であったと思います。 この様に業界へ表現自粛を求める動きは継続し、 そして、1999年5月に「禁止法成立」が国会で可決。 同年11月1日施行となります。 「禁止法」は、児童を性的搾取・虐待から守り、児童の権利を保護することを目的とする法律でしたが、出版業界・オタク界では、絵画・コミック・アニメ・ゲームなどの創作物も取り締まりの対象となるとの情報が流れ、市場にも混乱は広がります。 「に影響を受けた作品・」でも少し触れましたが、 大手書店の中には法律施行後、問題があると思われるコミックスを店頭から排除し、「法が施行されました。 当店は法律を尊守します」との内容を店内にするなど、過剰な自粛が見られました。 その後、混乱は徐々に落ち着きますが、とを巡る問題は、今も続いています。 以下、自主規制の事例を少し、 「」 :著 週間 1994年:13号~1996年:18号まで連載 「」の登場人物が「4鬼!」と言いながら手で数字の4を示す仕草が「差別表現 四つ に見える」として編集部から作者に確認が入り、編集部が関係機関に相談し「問題なし」との回答を得たにも関わらず、最終的に修正されました。 「」内で先生が取り上げたこともあり、表現の自主規制として有名な事例。 「BLEACH -ブリーチ- 」:著 週間少年ジャンプ2001~2016年の38号まで連載 アニメ・2004年10月~2012年3月まで放映 「志波空鶴」という、コミック原作では右腕の肩より下がないキャターが、アニメ放映時には義手を装着して登場。 身体表現に配慮した為と思われます。 と、 特にやり玉に挙がっていた性的表現以外にも、部落差別問題に関連した表現、身体障がい 欠損 表現と多岐に渡って業界の自主的な表現自粛が行われていた形跡がうかがえます。 ネーム段階のチェックで修正される表面に出ない自主規制は以前からあったと思いますが、この時期以降さらに多くなったと思います。 私は、創作物の適切な配慮やは大切だと考えていますが、過剰な規制で創作物に関わる業界全体が委縮してしまう事も、創作者のが制約を受けることも問題だと考えています さて、 ここで話を「」に戻します。 1980年代に入り、 年にっかつビデオフィルムズから「」ビデオソフト発売。 1987年以降の「魍魎戦記MADARA」シリーズのヒット、 1988年JICC出版から「」発売。 1989年「・PC版」発売。 と、 「」の再発見・リメイクが続いていた1980年代後半、 この時期、誌に「特集」や「」の記事が散見されるようになります。 1980年代後半はバブル景気もあり、多くの誌が創刊されていました。 また、旧アニメ放映時からのファンや「」放映時に幼児であった視聴者の年齢がさらに上がっていた事も理由に有りそうです この「再発見」の流れは継続するかに見えましたが、 上記の様に、1989年「埼玉幼女誘拐殺人事件」以降、出版業界を含め創作物全体に自主規制が強く求められる様になります。 ですが、この事件後の過剰ともいえる業界の「表現自粛」で「」の再発見・リメイクの動きは鈍化したのではないかと考えています。 ビデオ「・3巻 ・3巻、全6巻」2000年発売。 これなどはもっと早く発売されても良かった映像商品だと思うのですが、年のにっかつビデオフィルムズ「・全2巻」ビデオソフト発売から16年以上の時間を経て販売されています。 「・LDボックス」1998年1月25日発売・「・DVD Complete-BOX」2002年11月21発売 また、「」のゲームソフト化も、この事件が無ければ「再発見」の流れに乗って、もう少し早かったのではないか? と考えます。 1950年、での「図書による青少年の保護育成に関する条例」制定を嚆矢とする「不良出版物絶滅運動」への流れは1980年代、90年代を経て今も続いており、創作者・創作物を愛する多くの人に関わっている問題です。 2019年3月「を守る会」の議員が、組織の支援なくSNS・インターネット上を主戦場として活動を行い、目標を超える540,077票を得票し当選、支援を続けてきた氏 漫画家・理事 は「オタクが票田になる可能性を示した」とコメントを寄せました。 若いオタク層の票が議員を国会に送り出せた意義は大きく、今も戦っておられる多くの創作者の方々、先人の努力に頭が下がります。 そして、この流れは手塚先生が何時の時代もその先頭にいて、マンガの社会的な地位を上げようとしてくださった事と繋がっているのだと思います。 機会があれば1950年代の「不良出版物絶滅運動」についても纏めたいと思っています。 moke3.

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法律事務所の新米事務員備忘録

事件備忘録

平成13年8月14日 「剛士ぃっ!!!!」 人通りの多いJR神戸線立花駅前のコンビニエンスストア前の路上では、多数の捜査員と揉みあう若い男女の姿があった。 暴れまわる金髪の女に対し、向き合う形で捜査員に引き離された痩せこけた男は、錯乱状態で泣き叫ぶその女を茫然としたまなざしで見つめていた。 この様子はその日の夕方のニュースで全国に放送され、見たものは二人の異常な様子に唖然とした。 この日から1週間前、男と女は小学1年生の女の実子を凄惨な暴力の挙句に殺害し、こともあろうか事件の発覚を恐れて近くを流れる運河に遺棄したのだ。 その遺体は、黒いごみ袋に詰められていた。 男児は勢田恭一くん(当時6歳)。 度重なる虐待から児童養護施設で生活していたが、事件の直前、8月1日から10日間の予定で一時帰宅となっていた。 恭一君は、「嫌やなぁ、(家に)帰りたくない」と泣いていた。 そして、その7日後に、殺害されてしまった。 事件まで 母親はその名を知子という。 当時24歳で、殺害された恭一君の下にも次男がいる。 2度の結婚歴があり、恭一君は最初の夫との間の子供だった。 恭一君は当初、知子と夫が離婚したのち、西宮市内の夫の実家に預けられていた。 恭一君はその祖母宅で愛されて育ち、何の心配もなく健康に成長していたが、小学校入学を来春に控えた平成13年になって突然、知子が恭一君を引き取りに現れたという。 知子は恭一君の親権は持っており、それまでも何度か会いに行ったりはしていた。 知子はすでに再婚しており、夫である剛士(当時24歳)とともに西宮を訪れ、このときは半ば強引に恭一君を連れ帰った。 しかし、2月に入ってすぐ、つまり恭一君を連れ帰って一か月もしないうちに、恭一君は西宮子どもセンターに保護されてしまう。 ことの経緯としては、恭一君をこのセンターに連れてきたのは知子と剛士だった。 理由としては、恭一君が下の弟をいじめて困る、という相談だった。 しかし、ただならぬ様子の恭一君を診察した医師によれば、全身に及ぶ虐待の痕が見てとれたという。 全身に外傷からくる紫斑、皮下出血、そして鎖骨骨折の跡、血液検査からは筋肉組織の挫滅まで判明した。 このことがきっかけで、神戸市内の児童養護施設「尼崎学園」に入ることになった。 「なつかないので叩いた」 尼崎学園の芝明宏園長に、知子はそうつぶやいたという。 芝園長は、「あせらないで。 5年も離れていたのだから、すぐにいい親子になれるとは限らない」と諭した。 この時点では、知子も自分の至らなさを悔い、自分に悪いところがあると反省もしていたようだ。 恭一君を尼崎学園に預けてすぐ、知子は小学生になる恭一君のために、文房具やお祝いのカードなどを送り、同じ園で暮らす子供たちのためにハローキティ電報を15通も送ってきたこともあった。 4月に一時帰宅した後、最期の一時帰宅となった8月のあの日まで、尼崎学園は恭一君を知子夫婦のもとへは帰していない。 夏休みということもあり、8月1日から10日間の予定で恭一君は自宅へ帰る予定になった。 しかし、園の方針だったのか、その日になって突然恭一君にその旨を告げたという。 驚いて動揺する恭一君は、帰りたくないと言って泣いた。 それでも、指導員らがなだめるうちに、自分でビーチサンダルを用意するなどし始め、かえることに納得していたように見えた。 JR福知山線道場駅で知子夫婦が待っているというので、園の指導員が車で駅まで送ったが、その道中も「嫌やなぁ」と言って恭一君は涙をこぼしていた。 園が一時帰宅の際に持たせる食料品とともに恭一君を知子夫婦に引き渡したが、指導員は知子の言動が気になっていた。 そのまま旅行に連れて行く予定だったのか、知子が恭一君の荷物を確認し始めたという。 すると、「服が足りない!」と言って憤慨したというのだ。 久しぶりの息子との対面で、本来ならばうれしくて些細なことなどどうでもいいはずなのに、服が足りないと言って憤慨する知子は異様だった。 8月4日、立花町の文化住宅に住んでいた知子夫婦は、近くの公園での盆踊りに家族で出かけた。 しかし、知子の体調が悪くなり、早めに帰宅したという。 遊び足りなかった恭一君は不満そうだった。 そして、それを感じた知子もイラ立っていた。 翌5日。 恭一君の服にカレーが飛び散っていることに気づいた知子が、そのことを恭一君に訊ねると、恭一君は「気づかへんかった」と答えた。 至極当たり前の返答である。 しかしこれに知子は激高する。 いきなり平手で恭一君の頬を張ると、そこに剛士も加わった。 不貞腐れたように見えたのか、剛士も怒鳴り、恭一君に迫った。 ただ、彼らの真意はカレーが云々ではなく、自宅に戻ったというのに楽しそうではない恭一君の本心を知ることだった。 「園と家と、どっちがいいのか、誰が一番好きなのか」 恭一君はそう聞かれ、「ごはんやジュースをくれるし、おもちゃも買ってくれるし、剛ジィがえぇ」と答えた。 しかし、二人は全く納得しない。 どう答えれば納得したのかはなはだ疑問だが、知子はしつこく恭一君に訊ねた、誰が好きなんや、と。 知子や剛士を好きだと言っても納得しないことから、恭一君はつい、「園のねえちゃん(指導員の事)が一番好き」と言ってしまう。 知子は畳みかけるように訊ねた、「ママは怒るから嫌いなんやろ」と。 おそらくハッとしたであろう恭一君は、「ママが好き」と言い直した。 隣の部屋で聞いていた剛士が割って入り、「俺にも本当のことを言え、さっきは園の姉ちゃんが好きや言うたやないか!」とかわるがわる詰問した。 何を答えれば正解なのか、恭一君が分かるはずもない。 知子夫婦はすでになぜ恭一君に詰問しているのか、その理由すらわからなくなっていた。 黙りこくってしまった恭一君に対し、剛士は知子に聞いた。 「もうこいつ、しばくぞ」 それに対する知子の返事は、 「うん、ええよ、かまへんよ。 怒るときは怒ってや」 恭一君が「剛ジィが好き」「家が好き」と必死で答えても、剛士はそのたびに顔面を殴った。 園が良いと言えば殴られ、ママが好きと言えば嘘をつくなと殴られ、恭一君の逃げ場はなかった。 空腹だった恭一君は、園から持ってきたそうめんが食べたいといった。 この発言も、知子夫婦を激怒させた。 知子はそのそうめんを茹でずに、固いままの束を恭一君の口に押し込んだ。 むせる恭一君に、さらに麺つゆをビニール袋にいれ、残りのそうめんを放り込んで全て無理やり食べさせた。 知子は布団たたきで恭一君の背中をたたき続けた。 恭一君の死 6日の午前中、滞納していた電気料金を支払うため、知子と剛士は外出する。 その際、恭一君を縛り上げ、口にはガムテープを張って出て行った。 帰宅すると、恭一君は自分で縄を解き、おとなしく遊んでいたという。 その日行われた西宮子どもセンターのケースワーカーとの面談では、「恭一を引き取りたい」と申し出るも拒否され、それならばせめて延長をと食い下がって尼崎学園へ戻すのを1週間延ばさせた。 そうしなければならない理由があったからだ。 翌日7日の昼前、知子の母親がやってきた。 もともと仲が良い母娘ではなかったが、西成で日雇い労働者の人夫貸のような仕事をしていたその母親は、思いついたようにこうして立花町の娘の家を訪れていた。 しかしその日娘の家を訪れたのは、前日にただならぬ様子で知子から電話がかかってきたからだった。 「ママ、相談したいことがあるから来てほしい」 娘の夫である剛士とは、正直お互いが嫌い合っていた。 母親がドアを開けると、そこには疲弊した様子の娘夫婦と、その背後の部屋でぐったりとした孫の恭一君が目に入った。 ひと目で知子らが恭一君に暴力を振るったことは分かったが、この母親自身、知子やその兄らを殴って育てて来ていたためか、「こいつら顔殴りやがって(虐待がばれるやないか!)」としか思わなかった。 知子夫婦はその日午前7時ころまで寝ていなかった。 というのも、独り言を口にする恭一君にいら立った知子夫婦は、午前4時ころまで暴行を加え続けていたのだ。 しかも、午前7時ころに便を漏らした恭一君が知子らの寝室へ来た際には、剛士が激高して恭一君に回し蹴りした。 倒れこんだ恭一君は、そのまま動かなくなったが、二人はさして気にも留めずそのまま寝た。 「ビーチボールがないから、洗われへん、どうしよう」 これが、恭一君の最期の言葉だった。 恭一君の様子が尋常ではないことに気づいた知子の母親は、病院へ連れて行けと二人に言うが、「あかん。 虐待がばれる」そういって知子はそれを拒否した。 「そんなもん、病院の入り口に置いてきたらえぇんじゃ!」 ひっくり返りそうな発言だが、この母親はさも名案だと言わんばかりに言った後、話は済んだと寝入ってしまった。 知子の母親が目を覚ましたのは、保育園に行っていた次男が知子に連れられ帰宅した夕方近くだった。 次男と遊んだりしながら、気が付くと知子と剛士の姿はなく、恭一君の姿もなかった。 母親は、恭一君をようやく病院へ連れて行く気になったかと思い、そのまま知子夫婦が帰宅するまで次男の面倒を見ていたという。 午後10時過ぎ、ふと玄関に知子と剛士の姿があることに気づく。 ふたりはなぜかボストンバッグを持っていた。

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