日本橋 高島屋 千疋 屋。 会社案内

【東京時間旅行】「ゾウの高子」 日本橋高島屋で飼育された平和の象徴(1/3ページ)

日本橋 高島屋 千疋 屋

2019年3月。 日本橋高島屋の本館4階、5階に高島屋史料館TOKYOがオープンした。 史料館自体は1970年に株式会社設立50周年を記念した事業の一環として大阪に開館しており、そこでは日本を代表する美術館の名品、18世紀の能装束、歴史的価値の高い戦前のポスター、社史や専門書などが収蔵されている。 その分館として誕生した高島屋史料館TOKYOは4階に展示室、5階に創建当時の床や天井を残したセミナールーム(旧貴賓室)が設けられており、空間からだけでも歴史を感じることができる。 展示室では年4~5回の企画展を開催、そのテーマに関連したセミナーを開くなどして、モノではなく、情報、体験を提供していくという。 オープン時の企画展は「日本橋高島屋と村野藤吾」で期間は5月26日まで。 会期中には重要文化財に指定されている日本橋高島屋の建築と建築家・村野藤吾、日本橋というまちを絡めた講演会が数回予定されており、建築、まちに関心のある人ならこれは!と思う内容ばかり。 以降もデザイン評論家で武蔵野美術大学名誉教授の柏木博氏監修による「モダンデザインと暮らしの文化」(仮)、2018年文化功労者でアートディレクターの北川フラム氏監修による「まちと地域の文化とアート」(仮)などが予定されている。 展示室は11時~19時開館で、月・火曜日は休み。 入館料は無料だ。 ここでは新たに発見された最初の設計者・高橋貞太郎の図面なども展示された「日本橋高島屋と村野藤吾」から増築に増築を重ねて誕生した建物とその歴史についてご紹介しよう。 中央通りに面したエントランスから続く吹抜け部分。 シャンデリアは戦争中に供出され、現在は村野のデザイン。 柱の回りその他の細工を見ているだけでも楽しい 江戸時代末期に創業した高島屋が東京・日本橋に店舗を構えたのは1933年。 建主の日本生命が1923年の関東大震災によって消失した東京支店の再建と高島屋への賃貸を目的として取得した土地に建設されたもので、当初の名称は「日本生命館」。 1930年に行われた、今でいうところのコンペで選ばれた設計者は、高橋貞太郎。 当時は東京帝国大学建築学科の恩師・佐野利器が関東大震災の復興事業のために設立した復興建築助成株式会社に勤めていたそうで、390案もの中から特選に選ばれたというのに、図面には高橋の名は無し。 今回の展示に当たって監修を務めた建築史家で京都工芸繊維大学教授の松隈洋氏によればその当時のコンペは単なる外観のアイディアを募る「懸賞募集」として実施されており、著作権は認められていなかったからだそうだ。 高橋の設計で竣工した建物は鉄筋鉄骨コンクリート造の地下2階、地上8階、延べ床面積2万9,000m2というもので、百貨店としては日本初の全館冷暖房装置を備えていた。 そのため、竣工当時の宣伝コピー「東京で暑いところ、高島屋を出たところ」は大きな話題になった。 日本で各家庭にエアコンが普及するのは戦後の昭和40年代以降と考えると、当時の高島屋がいかに快適な場所だったかは想像に難くない。 しかも、1階ホールにはイタリア産の大理石にシャンデリアという豪華さである。 日本橋高島屋に限らず、歴史ある百貨店はいずれも見事な建築が目を惹くが、これはかつて百貨店が庶民の行楽の場だったためだ。 「昭和初期の百貨店は、地方から東京に出てきた人にとって、名所として訪ねる場所のひとつに位置づけられると同時に、東京に住む人々にとっても『銀ブラ』などと同じように、都市生活に潤いを与える欠くことのできない存在になっていった。 」(繁華街の近代 都市・東京の消費空間 初田亨著 東京大学出版会)そうで、当時の遊覧バスのコースには百貨店が入っていた(!)ほど。 当時の人たちからすると憧れを持って訪れる場だったのだ。 戦争での中断を経て、4度の増築で今の姿に 開業時の写真。 上の写真右手が中央通りになる。 下は内部の機械は交換されたものの、使われ続けているエレベーター その結果、売上は順調に伸び、早くも4年後の1937年には1940年竣工を目標に増築工事が始まった。 ところが、工事開始のわずか2ヶ月後には日中戦争が勃発。 工事は地階のみを完成しただけで中断されてしまう。 高橋がようやく自分の事務所名で担当できることになったというのに不運なことである。 百貨店そのものも不幸な時代を迎える。 戦争中には原材料の不足を補うために各種金属類の供出を余儀なくされ、建物の正面の扉飾りや階段のブロンズ製の手すり、屋外の化粧金物、戦争末期にはシャンデリアやエレベーターの一部、冷暖房装置までが撤去されていたという。 さらに売り場の半分以上は供出され、生活必需品や食料等が配給制になったため、売るモノがなくなり……。 現在の明るい店内にそうした過去があることを知ると、平和のありがたさが実感できるというものである。 そうした時代を経て終戦後、再度、増築が計画されたのだが、次に起用された建築家は高橋ではなく、日生劇場や横浜市役所、千代田生命本社ビル(現目黒区総合庁舎)などで知られる村野藤吾だった。 当初のコンペでは「東洋趣味を基調とする現代建築の創案」が求められたものの、戦後復興にあたり、高橋の当初案では建築費用が相当高額になることが予想されたこと、高島屋がモダンで明るいデザインを求めたこと等の人選だったそうである。 1951年5月に着工した増築工事は1952年4月に竣工。 ただ、それでも足りずに1954年、1963年と工事は続けられ、現在の姿になったのは第4次増築の終わった1965年である。 異なるテイストを合体、無理なくひとつに 4回の増築が終了した後に作られたものと想定される石膏模型。 上が高橋のオリジナルデザイン、下が村野の増築部分。 この模型自体も今では珍しいほど精緻に作られているそうだ 今回の展示ではその高橋の設計図が偶然、発見され、展示されている。 高島屋が数年前の改修にあたり、村野の設計図類を保存している京都工芸繊維大学美術工芸資料館の松隈氏に資料を見たいと問合せたところ、その中に高橋の図面があったのだ。 どうして、村野の手元に高橋の図面があったか、詳細は分からないが、他人が作ったもの、作りかけたものに手を入れ、異なるテイストを無理なく融合させ、ひとつの建物にまとめるのは難しい作業。 村野は高橋の図面を精査、どうすべきかを呻吟したのではあるまいか。 そうした事情を聞いてから改めて建物をぐるりと一周して眺めてみると、部分的には異なる要素が入っていることが分かる。 特に違いが分かるのはどこか和風でクラシカルな正面玄関と外壁にガラスブロックが使われたモダンな南側。 もちろん、前者は高橋の、後者は村野の増築部分だ。 ただ、最上階の2層に小さな窓を並べた高橋のデザインを踏襲するなど全体を統一する細かい配慮があり、1棟として見た時の違和感はない。 また、ガラスブロック面が非常に大きく目立つことから、その印象を和らげるために彫刻を配するなど細かな配慮もあるそうで、資料館を訪ねたら建物を一周、どこにどんな工夫があるかを実物で確認してみると面白いかもしれない。 ちなみに日本橋高島屋では毎月第二金曜日の午前11時、午後3時に約1時間の無料見学ツアーを実施している。 なかなか予約がとれないほどの人気というが、こちらも一度参加してみたい。 創建時から使われ続けているエレベーターや大理石貼りの壁の中にアンモナイトなど、見所はあり過ぎるくらいだ。

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日本橋高島屋に史料館誕生。竣工から重要文化財に至るまでの経緯を展示

日本橋 高島屋 千疋 屋

会社案内 千疋屋総本店について 千疋屋総本店は1834年(天保5年)創業の老舗果物店です。 180年余の歴史を誇り、上質な果物をご提供しております。 贅沢な旬の果物をご自宅で楽しむのはもちろん、大切な方への贈答品としても最適です。 千疋屋のロゴデザイン 日本橋本店 千疋屋の歴史 昭和30年代頃 旧本店 1834年 天保5年 、武蔵国埼玉郡千疋の郷 現在の埼玉県越谷市千疋 の侍であった初代大島弁蔵が江戸、葺屋町 現日本橋人形町3丁目 に「水菓子安うり処」の看板を掲げ、果物と野菜類を商う店を構えました。 1867年(慶応3年)には日本橋本町 室町 に店を移し、我が国初の果物専門店となり、今の千疋屋総本店の基礎ができました。 1887年 明治20年 には、フルーツパーラーを創業し、その後、銀座松屋や浅草松屋にも出店します。 戦後は、支店 売店 網の拡充に注力し、1971年 昭和46年 4月、現本店ビル新築開店し、フルーツパーラー&レストラン、宴会場、製菓工場の経営により名実共に我が国最大の総合果物店へと発展しました。 2005年 平成17年 9月には、日本橋三井タワーに現在の日本橋本店がオープンしました。 日本橋本店の魅力 180年以上の歴史を誇る千疋屋総本店は、21世紀に進化するブランドの象徴として、2005年9月に日本橋室町に新本店をオープンいたしました。 フルーツの彩りや瑞々しさを引き立てる素材や色、光を使いながら、歴史ある老舗としての「品格」を感じ取れる空間作りを心がけております。 家具に「マンゴー」や「ココナッツ」の木を使うなど、千疋屋ならではの遊び心を加えています。 1F Caffe di FESTA カフェ・ディ・フェスタ 清潔で透明感あるデザインでまとめています。 ペンダントライトや間接照明の光、それを効果的に移しこむガラスや鏡。 明るい空間の中に上品さを大切に計画しています。 オープンカウンター席、テーブル席、ソファエリアと用途に応じたレイアウトで、一角に終戦当時の商品券などを飾ったミュージアムスペースを設けるなど、変化ある空間としています。 All rights reserved.

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敗戦から立ち上がる占領下のわが国に続々と来日したアジアゾウの1頭。 日本橋高島屋(東京都中央区)屋上で飼われていた「高子」の写真が14日まで同店で公開された。 今年になって飼育員の遺族から写真が贈られ、来日65年を経て展示が実現。 セピア色の印画紙から、ゾウが戦後日本にもたらしてくれた希望も浮かび上がってくるようだ。 長い鼻を伸ばして、飼育員の太鼓を鳴らそうとする高子。 向き合う飼育員の笑顔に人とゾウの信頼関係が伝わる。 写真は高島屋で高子の飼育係だった畔上吉五郎さんの孫で、荒川区在住の吉雄さん(60)から1月に寄贈された。 高子は昭和25年にタイから来日。 銀座をパレードしながら日本橋までやってきたとの記録から、人々の興奮ぶりがうかがえる。 当時隣町の京橋に住んでいた帽子作家の荒井静枝さん(66)は、「私は高子と同じ24年生まれで、背中に乗った記憶はおぼろげ。 むしろ両親や祖父母が後々まで『利口だった』と話題にし続けていたことに存在の大きさを感じた。 わが家のように空襲で焼け出されたり、戦争で家族を失った人々の大きな希望になっていたことは確かです」 高子は29年に上野動物園に引き取られ、33年に開園した多摩動物公園に移動。 荒井さんは仕事や子育てで忙しく、高子と再会できたのは平成に入ってからだ。 「屋上にいたときのように『高ちゃーん』と呼びかけ手をたたくと、1頭がゆっくりこちらに歩いてきて、柵から身を乗り出した。 そして、鼻を振り上げたり、ウンウンうなずいたり、子供のころと同じ芸を見せてくれたんです」 その直後の平成2年、高子は不運にも飼育場の堀に落ちて死んだ。 荒井さんは高子が生きた記録を残したいと、3年前に文章と絵を自ら手がけた絵本「デパートのうえのたかちゃん」(致知出版社)を自費出版した。 昨年、テレビ番組を通じて高子と絵本の存在を知った畔上さんは、祖父が残した写真の価値に気付いた。

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