こうそんさん。 公孫瓚 (こうそんさん)とは【ピクシブ百科事典】

公孫氏

こうそんさん

4代にわたって 三公 ( さんこう )を輩出した名門・ 汝南 ( じょなん ) 袁氏 ( えんし )の出身で、 袁紹 ( えんしょう )の 従弟 ( いとこ )。 董卓 ( とうたく )が権力を握ると、 南陽郡 ( なんようぐん )で挙兵して反 董卓 ( とうたく )連合に参加するが、やがて 袁紹 ( えんしょう )と対立する。 その後 揚州 ( ようしゅう )に勢力を拡大した 袁術 ( えんじゅつ )は、天子を 僭称 ( せんしょう )して国号を「 仲 ( ちゅう )」と 定 ( さだ )めるも、諸侯の反発を受け、 孫策 ( そんさく )が離反。 曹操 ( そうそう )に敗北した 袁術 ( えんじゅつ )は 袁紹 ( えんしょう )の元に身を寄せようとするが、その途中に発病して亡くなった。 董卓 ( とうたく )配下の 都尉 ( とい )。 董卓 ( とうたく )が朝廷で権力を握ると反 董卓 ( とうたく )連合が決起。 胡軫 ( こしん )に従って 陽人聚 ( ようじんしゅう )に侵出した 孫堅 ( そんけん )を迎撃に出るが、 胡軫 ( こしん )を嫌った 呂布 ( りょふ )が偽情報を流したため 胡軫 こしん軍は敗北。 混乱の中で 華雄 ( かゆう )は斬られ、 獄門 ( ごくもん )(さらし首)にかけられた。 『三国志演義』では、 鮑忠 ( ほうちゅう )、 祖茂 ( そも )、 兪渉 ( ゆしょう )、 潘鳳 ( はんほう )を次々に討ち取る活躍を見せるが、その後 関羽 ( かんう )に瞬殺され、 関羽 ( かんう )の強さを強調する役目を 担 ( にな )う。 解県 ( かいけん )で暴利を貪る塩商人を殺して 幽州 ( ゆうしゅう )に逃げてきたところで 劉備 ( りゅうび )・ 張飛 ( ちょうひ )と出会い、 劉備 ( りゅうび )に仕えて挙兵した。 曹操 ( そうそう )に捕らえられた際は、厚遇されても 劉備 ( りゅうび )への忠誠を忘れず、 曹操 ( そうそう )の敵であった 袁紹 ( えんしょう )配下の猛将、 顔良 ( がんりょう )を討って恩を返してから 曹操 ( そうそう )のもとを去った。 劉備 ( りゅうび )が蜀の地を得ると 荊州 ( けいしゅう )を任されるが、傲慢で敵をあなどる性格が災いし、魏を攻めている最中、呉に背後を突かれて敗死した。 朝廷の実権を握った 董卓 ( とうたく )により 冀州牧 ( きしゅうぼく )に任命されるが、その後反 董卓 ( とうたく )連合に参加する。 董卓 ( とうたく )が即位させた 献帝 ( けんてい )を認めず、 袁紹 ( えんしょう )と共に 幽州牧 ( ゆうしゅうぼく )・ 劉虞 ( りゅうぐ )を天子に 擁立 ( ようりつ )しようとしたが、 劉虞 ( りゅうぐ )本人の反対により失敗した。 公孫瓚 ( こうそんさん )が 冀州 ( きしゅう )にに侵攻すると、保身のために 袁紹 ( えんしょう )に 冀州 ( きしゅう )を 譲 ( ゆず )るが、すべての権力を 剥奪 ( はくだつ )されてしまう。 その後、 陳留太守 ( ちんりゅうたいしゅ )・ 張邈 ( ちょうばく )の元に身を寄せるが、 袁紹 ( えんしょう )に命を狙われていると思い込み、自害してしまった。 諱 ( いみな )は 劉協 ( りゅうきょう )。 霊帝 ( れいてい )の次子で 少帝 ( しょうてい )の 異母弟 ( いぼてい )にあたる。 母の 王美人 ( おうびじん )は、 劉協 ( りゅうきょう )を生むと 何皇后 ( かこうごう )の嫉妬により毒殺された。 霊帝 ( れいてい )の死後、朝廷で権力を握った 董卓 ( とうたく )に 擁立 ( ようりつ )されて天子に即位する。 その後、 董卓 ( とうたく )は 長安 ( ちょうあん )への 遷都 ( せんと )を強行し、 長安 ( ちょうあん )を脱出した 献帝 ( けんてい )は、 曹操 ( そうそう )に保護されて都を 豫州 ( よしゅう )・ 潁川郡 ( えいせんぐん )・ 許県 ( きょけん )に移した。 220年、 曹操 ( そうそう )の跡を継いだ 曹丕 ( そうひ )に帝位を 禅譲 ( ぜんじょう )し、400年に渡る漢王朝はその幕を閉じた。 皇甫規 ( こうほき )・ 威明 ( いめい ) 涼州 ( りょうしゅう )・ 安定郡 ( あんていぐん )・ 朝那県 ( ちょうなけん )の人。 祖父は 度遼将軍 ( とりょうしょうぐん )、父は 扶風都尉 ( ふふうとい )を務めた名門の出身で、自身も異民族との戦いで数々の功績をあげた。 宦官 ( かんがん )と対立し、 党錮 ( とうこ )の禁の際には 自 ( みずか )ら 党人 ( とうじん )であると名乗り出たが、 罷免 ( ひめん )されることはなくそのまま 用 ( もち )いられる。 皇甫規 ( こうほき )が亡くなると、若く美しい 皇甫規 ( こうほき )の妻を 妾 ( めかけ )にしようと 董卓 ( とうたく )が 迫 ( せま )ったが、 毅然 ( きぜん )として断ったため殴り殺された。 胡広 ( ここう )・ 伯始 ( はくし ) 荊州 ( けいしゅう )・ 南郡 ( なんぐん )・ 華容国 ( かようこく )の人。 外戚 ( がいせき )・ 梁冀 ( りょうき )の専横を止めず、 中常侍 ( ちゅうじょうじ )の 丁粛 ( ていしゅく )と婚姻関係を結ぶなど、 外戚 ( がいせき )や 宦官 ( かんがん )と共存する 老獪 ( ろうかい )な生き方を貫き、 安帝 ( あんてい )、 順帝 ( じゅんてい )、 沖帝 ( ちゅうてい )、 質帝 ( しつてい )、 桓帝 ( かんてい )、 霊帝 ( れいてい )の6代に仕えて重職を担った。 また、 漢 ( かん )の制度をまとめた 『 漢制度 ( かんせいど )』を遺し、 蔡邕 ( さいよう )に大きな影響を与えた。 さ 父の 周異 ( しゅうい )は 洛陽令 ( らくようれい )、父の 従兄弟 ( いとこ )・ 周景 ( しゅうけい )とその子・ 周忠 ( しゅうちゅう )は共に 太尉 ( たいい )を 務 ( つと )めた名門の出身。 孫堅 ( そんけん )が反 董卓 ( とうたく )連合に参加した際、 舒県 ( じょけん )に移住してきた 孫策 ( そんさく )と親交を結んだ。 孫策 ( そんさく )・ 孫権 ( そんけん )の2代に仕え、 曹操 ( そうそう )の南下に際しては 魯粛 ( ろしゅく )と共に徹底交戦を主張して「赤壁の戦い」を勝利に導く。 孫権 ( そんけん )に 益州 ( えきしゅう )を得て 曹操 ( そうそう )と対抗することを進言し、出陣の準備に向かう途上、 病 ( やまい )により36歳の若さで 亡 ( な )くなった。 朱穆 ( しゅぼく )・ 公叔 ( こうしゅく ) 荊州 ( けいしゅう )・ 南陽郡 ( なんようぐん )・ 宛県 ( えんけん )の人。 朱暉 ( しゅき )の孫。 大将軍 ( だいしょうぐん )・ 梁冀 ( りょうき )の 故吏 ( こり )で、たびたび 梁冀 ( りょうき )の横暴を 諫 ( いさ )めた。 冀州刺史 ( きしゅうしし )に就任すると 宦官 ( かんがん )の不正を厳しく取り締まったが、その 苛烈 ( かれつ )さが 桓帝 ( かんてい )の怒りに触れて 罷免 ( ひめん )される。 その後 尚書令 ( しょうしょれい )に任命されたが、 宦官 ( かんがん )に対する厳しさは変わらなかった。 死後、 蔡邕 ( さいよう )によって「 文忠 ( ぶんちゅう )先生」と 諡 ( おくりな )される。 幼い頃に父を 亡 ( な )くすと 従父 ( おじ )の 諸葛玄 ( しょかつげん )と共に 劉表 ( りゅうひょう )を頼って 荊州 ( けいしゅう )に移住し、 崔州平 ( さいしゅうへい )や 徐庶 ( じょしょ )らと親交を持って農耕生活を送っていた。 「 三顧 ( さんこ )の礼」をもって 劉備 ( りゅうび )の 軍師 ( ぐんし )に 迎 ( むか )えられると、 蜀漢 ( しょくかん )の建国に多大な貢献をする。 劉備 ( りゅうび )が 崩御 ( ほうぎょ )すると 丞相 ( じょうしょう )として 劉禅 ( りゅうぜん )をよく補佐し、 国是 ( こくぜ )である北伐を行うが、5度目の出陣中に 病 ( やまい )に倒れて陣中で 没 ( ぼっ )した。 曹嵩 ( そうすう )・ 巨高 ( きょこう ) 豫州 ( よしゅう )・ 沛国 ( はいこく )・ 譙県 ( しょうけん )の人。 曹操 ( そうそう )の父。 宦官 ( かんがん )・ 曹騰 ( そうとう )の養子となって 司隷校尉 ( しれいこうい )、 大鴻臚 ( だいこうろ )、 大司農 ( だいしのう )を歴任し、実に1億銭を 霊帝 ( れいてい )に献上して 太尉 ( たいい )に就任する。 晩年は戦乱を 避 ( さ )けて 徐州 ( じょしゅう )・ 琅邪国 ( ろうやこく )に避難していたが、 兗州 ( えんしゅう )に地盤を得た 曹操 ( そうそう )の元に向かう途中、 陶謙 ( とうけん )の兵に襲われて殺害された。 曹節 ( そうせつ )・ 漢豊 ( かんほう ) 荊州 ( けいしゅう )・ 南陽郡 ( なんようぐん )・ 新野県 ( しんやけん )の人。 宦官 ( かんがん )。 順帝 ( じゅんてい )の時に 西園騎 ( せいえんき )から 小黄門 ( しょうこうもん )となり、 桓帝 ( かんてい )が崩御すると 中黄門 ( ちゅうこうもん )、 虎賁 ( こほん )、 羽林 ( うりん )1,000人を 率 ( ひき )いて 劉宏 ( りゅうこう )( 霊帝 ( れいてい ))を迎える。 竇武 ( とうぶ )・ 陳蕃 ( ちんはん )らの 宦官 ( かんがん )一掃計画を察知すると逆に彼らを 誅殺 ( ちゅうさつ )し、政治の実権を握って権勢を 誇 ( ほこ )った。 孫夏 ( そんか ) 荊州 ( けいしゅう )・ 南陽郡 ( なんようぐん )で蜂起した黄巾賊・ 張曼成 ( ちょうまんせい )の将。 『 三国志演義 ( さんごくしえんぎ )』では 孫仲 ( そんちゅう )として登場する。 張曼成 ( ちょうまんせい )、 趙弘 ( ちょうこう )の後を 継 ( つ )いだ 韓忠 ( かんちゅう )は城を捨てて撤退。 朱儁 ( しゅしゅん )の攻撃を受けて降伏するが、 南陽太守 ( なんようたいしゅ )・ 秦頡 ( しんけつ )が降伏した 韓忠 ( かんちゅう )を殺害したため、 孫夏 ( そんか )は兵をまとめて再度 宛県城 ( えんけんじょう )に 籠 ( こ )もった。 その後、 孫堅 ( そんけん )の攻撃に耐えきれず城を捨てて逃亡するが、 荊州 ( けいしゅう )・ 南陽郡 ( なんようぐん )・ 西鄂県 ( せいがくけん )の 精山 ( せいざん )で討ち取られる。 17歳の時に 銭唐県 ( せんとうけん )で海賊退治をしたことで名を挙げ、その後は 会稽郡 ( かいけいぐん )で起こった 許昌 ( きょしょう )の乱をはじめとする各地の反乱の鎮圧で活躍した。 また、 袁紹 ( えんしょう )を盟主とする反 董卓 ( とうたく )連合に応じて挙兵し、 袁術 ( えんじゅつ )の下で積極的に戦って 華雄 ( かゆう )を討ち取った。 袁紹 ( えんしょう )と 袁術 ( えんじゅつ )の対立が深まると、 袁術 ( えんじゅつ )の命によって 袁紹 ( えんしょう )派の 劉表 ( りゅうひょう )を攻めるが、 黄祖 ( こうそ )の部下が放った矢によって命を落とした。 檀石槐 ( たんせきかい ) 鮮卑 ( せんぴ )族の 大人 ( たいじん )。 父・ 投鹿侯 ( とうろくこう )が3年間 南匈奴 ( みなみきょうど )に従軍している間に生まれる。 不義の子として殺されかけるが、母の「口に入った 雹 ( ひょう )を飲み込んだところ 身籠 ( みご )もったので、きっと非凡な人物になるでしょう」という助命嘆願によって、母は離縁され 檀石槐 ( たんせきかい )の命は助けられた。 その後、勇健で知略に富んだ 檀石槐 ( たんせきかい )は部族内で 推 ( お )されて 大人 ( たいじん )となる。 初めて 鮮卑 ( せんぴ )族を統一し、 扶余 ( ふよ )・ 丁零 ( ていれい )・ 烏孫 ( うそん )を 討 ( う )って内外モンゴル一帯を支配すると、たびたび 後漢 ( ごかん )領内に侵入・略奪をくり返し、討伐軍を 退 ( しりぞ )けた。 ち 种暠 ( ちゅうこう )・ 景伯 ( けいはく ) 司隷 ( しれい )・ 河南尹 ( かなんいん )・ 洛陽県 ( らくようけん )の人。 益州刺史 ( えきしゅうしし )を務めていた時、 蜀郡太守 ( しょくぐんたいしゅ )が 曹騰 ( そうとう )に私的に送った書簡を手に入れ 蜀郡太守 ( しょくぐんたいしゅ )と 曹騰 ( そうとう )を 弾劾 ( だんがい )したが、逆に 曹騰 ( そうとう )はこの行為を 褒 ( ほ )め 称 ( たた )え、その後も 种暠 ( ちゅうこう )を厚く遇した。 後 ( のち )に 司徒 ( しと )となった 种暠 ( ちゅうこう )は「今の自分があるのは 曹常侍 ( そうじょうじ )( 曹騰 ( そうとう ))のお陰だ」と語った。 はじめ 公孫瓚 ( こうそんさん )に仕えたが、 後 ( のち )に 劉備 ( りゅうび )に仕える。 長坂 ( ちょうはん )の戦いでは、 曹操 ( そうそう )軍の激しい追撃の中 劉備 ( りゅうび )の妻子を守りきった。 また、 定軍山 ( ていぐんざん )の戦いではみごとな 空城 ( くうじょう )の計によって敵を退却させ、 劉備 ( りゅうび )に「 子龍 ( しりょう )は一身すべてこれ肝なり」と 称賛 ( しょうさん )される。 劉備 ( りゅうび ) 亡 ( な )き後も冷静な判断と実直な人柄で 劉禅 ( りゅうぜん )を支え、死後に 順平侯 ( じゅんぺいこう )の 諡号 ( しごう )を贈られた。 劉備 ( りゅうび )の挙兵以来、 関羽 ( かんう )と共に兄弟のように仕えた 万夫不当 ( ばんぷふとう )の豪傑。 長坂 ( ちょうはん )の戦いでは、 曹操 ( そうそう )軍から逃げる 劉備 ( りゅうび )を守るために 殿軍 ( しんがり )を 務 ( つと )め、一喝して 曹操 ( そうそう )軍を退けるなど、その勇名は敵味方に 轟 ( とどろ )いていた。 目上の者は 敬 ( うやま )うが、部下に対する苛烈な刑罰を改めることができず、 関羽 ( かんう )の 弔 ( とむら )い合戦の前に恨みを抱いていた部下の 范彊 ( はんきょう )・ 張達 ( ちょうたつ )に殺害された。 『三国志演義』での 字 ( あざな )は 翼徳 ( よくとく )。 太平道 ( たいへいどう )の開祖・ 張角 ( ちょうかく )の弟。 張梁 ( ちょうりょう )の兄。 張角 ( ちょうかく )が黄巾の乱を起こすと 地公将軍 ( ちこうしょうぐん )と称してこれに従った。 朝廷より討伐軍が派遣されると、病床の 張角 ( ちょうかく )の代わりに指揮をとった。 兄の 張角 ( ちょうかく )が病死し弟の 張梁 ( ちょうりょう )が戦死する中、 冀州 ( きしゅう )・ 鉅鹿郡 ( きょろくぐん )の 下曲陽 ( かきょくよう )に籠城して最後まで抵抗したが、 皇甫嵩 ( こうほすう )率いる討伐軍に敗れて討たれた。 『三国志演義』では妖術を使って官軍を苦しめた。 陳温 ( ちんおん )・ 元悌 ( げんてい ) 豫州 ( よしゅう )・ 汝南郡 ( じょなんぐん )の人。 初平 ( しょへい )元年(190年)当時の 揚州刺史 ( ようしゅうしし )。 董卓 ( とうたく )が支配する 洛陽 ( らくよう )( 雒陽 ( らくよう ))から逃亡してきた 許靖 ( きょせい )を 匿 ( かくま )った他、 曹洪 ( そうこう )と親しく、 董卓 ( とうたく )に敗れた 曹操 ( そうそう )に 廬江郡 ( ろこうぐん )の精鋭武装兵・2,000人を援助した。 その死については、「 初平 ( しょへい )3年(192年)冬に病死」とする記録と、「 初平 ( しょへい )4年(193年)3月に 袁術 ( えんじゅつ )によって殺害された」とする記録がある。 杜喬 ( ときょう )・ 叔栄 ( しゅくえい ) 司隷 ( しれい )・ 河内郡 ( かだいぐん )・ 林慮県 ( りんりょけん )の人。 順帝 ( じゅんてい )に 泰山太守 ( たいざんたいしゅ )の 李固 ( りこ )を推挙し、 外戚 ( がいせき )・ 梁冀 ( りょうき )と関係のある地方官を次々に 弾劾 ( だんがい )した。 質帝 ( しつてい )が 梁冀 ( りょうき )に毒殺されると 李固 ( りこ )と共に 清河王 ( せいがおう )・ 劉蒜 ( りゅうさん )を 擁立 ( ようりつ )しようとするが、 蠡吾侯 ( れいごこう )・ 劉志 ( りゅうし )(後の 桓帝 ( かんてい ))を 擁立 ( ようりつ )しようとする 梁冀 ( りょうき )に敗れて殺害された。 な 『三国志演義』のみに登場する仙人。 張角 ( ちょうかく )に 『 太平要術 ( たいへいようじゅつ )の 書 ( しょ )』を 授 ( さず )ける。 「これを使って民を助けよ。 ただし、悪しきことに使えば天罰が下る」と忠告するも、 張角 ( ちょうかく )は 『 太平要術 ( たいへいようじゅつ )の 書 ( しょ )』で習得した妖術を頼りに 太平道 ( たいへいどう )を開き、黄巾の乱を引き起こした。 南華老仙 ( なんかろうせん )は、戦国時代の思想家である 荘周 ( そうしゅう )( 荘子 ( そうし ))が仙人になった姿と考えられており、青い目を持つ子供のような顔をした老人として描かれている。 李固 ( りこ )・ 子堅 ( しけん ) 益州 ( えきしゅう )・ 漢中郡 ( かんちゅうぐん )・ 南鄭県 ( なんていけん )の人。 大将軍 ( たいしょうぐん )・ 梁商 ( りょうしょう )に 辟召 ( へきしょう )されるが、 梁商 ( りょうしょう )の子・ 梁冀 ( りょうき )と対立した。 後に 太尉 ( たいい )に昇進する。 質帝 ( しつてい )が 梁冀 ( りょうき )に毒殺されると、 蠡吾侯 ( れいごこう )・ 劉志 ( りゅうし )(後の 桓帝 ( かんてい ))を 擁立 ( ようりつ )しようとする 梁冀 ( りょうき )に対抗して 杜喬 ( ときょう )と共に 清河王 ( せいがおう )・ 劉蒜 ( りゅうさん )を 擁立 ( ようりつ )するが、 冤罪 ( えんざい )によって投獄・殺害された。 前漢の 魯恭王 ( ろきょうおう )であった 劉余 ( りゅうよ )( 景帝 ( けいてい )の第4子)の 末裔 ( まつえい )に当たる。 霊帝 ( れいてい )の時代、政治の腐敗や黄巾の乱の影響によって 刺史 ( しし )や 太守 ( たいしゅ )の支配力が弱体化していることを理由に、軍権と民政権を兼ねた「 州牧 ( しゅうぼく )」の復活を提案し、みずから 益州 ( えきしゅう )の 牧 ( ぼく )となる。 劉璋 ( りゅうしょう )の父。 『三国志演義』では、黄巾の乱の時に 幽州太守 ( ゆうしゅうたいしゅ )として登場するが、正史にその記録はなく、後に 益州 ( えきしゅう )を治めることになる 劉備 ( りゅうび )との因果関係を強める演出である。 劉悝 ( りゅうかい ) 桓帝 ( かんてい )の弟。 勃海王 ( ぼっかいおう )。 165年に反乱を計画した罪で 廮陶王 ( えいとうおう )に格下げされる。 中常侍 ( ちゅうじょうじ )の 王甫 ( おうほ )に 勃海王 ( ぼっかいおう )への復帰工作を依頼していたが、 桓帝 ( かんてい )の 遺詔 ( ゆいしょう )によって復帰が 叶 ( かな )うと( 王甫 ( おうほ )のお陰ではないからと) 王甫 ( おうほ )に礼金を支払わなかった。 これを 恨 ( うら )みに思った 王甫 ( おうほ )は「 劉悝 ( りゅうかい )に帝位 簒奪 ( さんだつ )の 企 ( たくら )みあり」と 誣告 ( ぶこく )し、追い 詰 ( つ )められた 劉悝 ( りゅうかい )は自害に追い込まれる。 東海恭王 ( とうかいきょうおう )・ 劉彊 ( りゅうきょう )[ 後漢 ( ごかん )の初代皇帝・ 光武帝 ( こうぶてい ) ( 劉秀 ( りゅうしゅう ))の長子]の 末裔 ( まつえい )に当たる。 清貧で知られ、 幽州牧 ( ゆうしゅうぼく )に任命されて「 張純 ( ちょうじゅん )の乱」を平定。 反 董卓 ( とうたく )連合が決起すると、 袁紹 ( えんしょう )らに 天子 ( てんし )に 推戴 ( すいたい )されるが、これを拒絶した。 その後、暴走する 公孫瓚 ( こうそんさん )討伐の軍を起こすが、敗れて捕らえられ、帝号を 僭称 ( せんしょう )しようとした罪で処刑された。 前漢の 景帝 ( けいてい )の第4子・ 魯恭王 ( ろきょうおう )・ 劉余 ( りゅうよ )の第6子、 郁桹侯 ( いくろうこう )・ 劉驕 ( りゅうきょう )の子孫。 若い頃から清流派の党人として名声を得る。 孫堅 ( そんけん )によって 荊州刺史 ( けいしゅうしし )・ 王叡 ( おうえい )が殺害されると、その後任に任命される。 また、 劉表 ( りゅうひょう )は学問を 奨励 ( しょうれい )したため、戦乱を逃れた名士や学者の多くが 荊州 ( けいしゅう )に移住した。 河北 ( かほく )を平定した 曹操 ( そうそう )が南下の姿勢を見せると、領土を失った 劉備 ( りゅうび )を受け入れて最前線の 新野県 ( しんやけん )を守らせるが、間もなく亡くなった。 前漢の 景帝 ( けいてい )の第9子、 中山靖王 ( ちゅうざんせいおう )・ 劉勝 ( りゅうしょう )の庶子、 劉貞 ( りゅうてい )の末裔というが、定かではない。 黄巾の乱の時に挙兵。 以来各地を転戦するも確たる地盤を持てずにいたが、 軍師 ( ぐんし )・ 諸葛亮 ( しょかつりょう )を迎えると「天下三分の計」に従って 益州 ( えきしゅう )の地に地盤を築いた。 献帝 ( けんてい )が 曹魏 ( そうぎ )に 禅譲 ( ぜんじょう )すると、皇帝に即位して「 蜀漢 ( しょくかん )」を建国する。 配下の 関羽 ( かんう )の 仇討 ( かたきう )ちに 呉 ( ご )に攻め込むが、 陸遜 ( りくそん )の火計に敗退し、病を患って 白帝城 ( はくていじょう )で 諸葛亮 ( しょかつりょう )に後事を託して没する。 梁冀 ( りょうき )・ 伯卓 ( はくたく ) 涼州 ( りょうしゅう )・ 安定郡 ( あんていぐん )・ 烏枝県 ( うしけん )の人。 後漢 ( ごかん )第8代皇帝・ 順帝 ( じゅんてい )の 皇后 ( こうごう )・ 梁妠 ( りょうどう )の兄。 外戚 ( がいせき )として権力を握り、 順帝 ( じゅんてい )、 冲帝 ( ちゅうてい )、 質帝 ( しつてい )、 桓帝 ( かんてい )の4代に渡って国政を私物化した。 成人した 桓帝 ( かんてい )が 宦官 ( かんがん )・ 単超 ( ぜんちょう )らの助力を得て 梁冀 ( りょうき )の排斥に成功したことから、一層 宦官 ( かんがん )への権力集中が進んだ。 丁原 ( ていげん )に仕えていたが、 董卓 ( とうたく )が 洛陽 ( らくよう )に入ると 丁原 ( ていげん )を殺して 董卓 ( とうたく )に従い、父子の 契 ( ちぎ )りを結ぶ。 「人中に 呂布 ( りょふ )あり、馬中に 赤兎 ( せきと )あり」と賞された万夫不当の豪傑。 その後、 司徒 ( しと )・ 王允 ( おういん )らと結んで 董卓 ( とうたく )を殺害するが、 李傕 ( りかく )・ 郭汜 ( かくし )に敗れて各地を放浪、自分を受け入れてくれた 劉備 ( りゅうび )が治める 徐州 ( じょしゅう )を奪う。 その後 劉備 ( りゅうび )と結んだ 曹操 ( そうそう )に包囲されると配下の裏切りを受けて降伏するが、命 乞 ( ご )いも 空 ( むな )しく 劉備 ( りゅうび )の進言によって処刑された。 鄭玄 ( じょうげん )とともに 馬融 ( ばゆう )に師事して儒学を学び、故郷 幽州 ( ゆうしゅう )・ 涿郡 ( たくぐん )・ 涿県 ( たくけん )で近隣の子弟に学問を教えていた。 門下には 劉備 ( りゅうび )や 公孫瓚 ( こうそんさん )がいる。 黄巾の乱が起こると 北中郎将 ( ほくちゅうろうしょう )に任命されて討伐軍の一翼を担ったが、軍の監察に来た 左豊 ( さほう )に賄賂を求められ、これを断ったために罪を着せられて免官された。 黄巾の乱が終結すると、 皇甫嵩 ( こうほすう )が 冤罪 ( えんざい )を証明したために復職したが、 董卓 ( とうたく )の 献帝 ( けんてい ) 擁立 ( ようりつ )に反対したために再び免官された。 晩年は 袁紹 ( えんしょう )の 軍師 ( ぐんし )となって病死した。

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【袁紹 vs 公孫瓚】界橋の戦い。白馬義従を破った麹義の底力

こうそんさん

公孫瓚 伯珪 こうそんさん はくけい 姓名 公孫瓚 字 伯珪 生没年 ? - 199年 所属 魏 能力 統率: 武力: 知力: 計略: 政治: 人望: 推定血液型 不明 諡号 --- 伝評 北方の勇将として知られ、劉備と共に兵学を学んだ群雄 主な関連人物 劉備 関連年表 186年 張純の乱 191年 奮武将軍・薊侯となる 193年 劉虞を破る 199年 易京の戦い 略歴 公孫サン サンは[王偏]に[賛] 、字を伯珪といい、遼西郡令支県の人である。 従弟に公孫範、公孫越、子は公孫続らがいる。 遼西郡の門下書佐に任命された。 容姿美しく大声の持主だったために、侯太守が秀れた人材だと認め、自分の娘と結婚させ、琢郡の盧植のもとにやって、経書を学ばせた。 後にふたたび郡の役人になった。 劉基太守が法律に触れ、廷尉のもとに連行された際、公孫サンは法律では下役人が近づくことを禁止していたが、衣服を変え、囚人車の従者となり、自身で雑役を引き受けてやった。 劉基が日南郡に流されることになると、公孫サンは米と肉をお供えとしてささげ、北芒山の上で先祖を祭り、盃をかかげて祈願して、先祖に別れを告げ、再拝して感情を激しくたかぶらせて立ち上がった。 このとき、そのありさまを見ていた者は、みなすすり泣いたのだった。 劉基太守は途中で赦免され帰還することができた。 公孫サンは孝廉に推挙され郎となり、遼東属国長史に任命された。 あるとき、数十騎をひきつれて城を出、辺境の砦を巡視し、数百騎の鮮卑族をみかけた。 公孫サンはそこで人気のない物見台の中に引き退き、部下の騎兵に、これを突破しなければ殺されてしまうとして脅しつけると、みずから矛を手に持ち、その矛の両側に刃をつけ、馬を走らせて出撃し、えびすを刺殺した。 数十人を殺傷したが、部下の半数が落命した。 こうして、のがれることができたのだった。 鮮卑族はこれに懲りて、その後、二度と国境を越えて侵入しようとはしなかった。 琢県の令に栄転した。 光和年間、涼州の賊徒が蜂起したとき、幽州の突撃騎兵隊三千人の出動を命じ、公孫サンに都督行事の割符を与えて、彼らを指揮させた。 軍隊がやってきたとき、漁陽の張純が遼西郡の烏丸族の丘力居らをひきこんで叛旗をひるがえし、属国の諸城を攻撃し、破壊を行なった。 公孫サンは配下をひきつれ、張純らを追撃し手柄をたて、騎都尉に昇進した。 属国の烏丸族の王が部族民をひきつれて公孫サンに降服した。 公孫サンは中郎将に昇進し、都亭侯にとりたてられ、前進して遼東属国に駐屯し、えびすと五、六年間にわたって攻防をくりかえした。 丘力居らが青州・徐州・幽州・冀州を荒らしまわったため、被害を被り、公孫サンは防ぎ止めることができなかった。 朝廷では、宗正の東海郡の劉虞は徳義あって、昔、幽州刺史として、恩恵と信義をゆきわたらせ、えびすたちも彼に心服しているゆえ、鎮撫できれば、兵を労さずに安定させられると判断し、劉虞を幽州牧に任命した。 劉虞は着任すると、反逆をつづける場合の利害を説いて、張純の首を送れと厳しく要求した。 丘力居らは、劉虞がやってきたことを喜んで、それぞれ通訳をさしつかわして、帰順を申し出た。 公孫サンは、劉虞の手柄を妨害するために、こっそり人をやって、えびすからの使者を待ち伏せして刺殺させた。 えびすのほうでは事情がわかると、間道づたいに劉虞のもとにやってきた。 劉虞は上表して、諸地の駐屯兵をひきあげ、ただ公孫サンのみを留めて、歩兵・騎兵一万をひきいて、右北平に駐屯させた。 張純はそこで妻や子を見捨てて、鮮卑族に逃げ込んだが、食客の王政に殺害され、その首は劉虞のもとに送りとどけられた。 劉虞は手柄によってすぐさま大尉に任命され、襄賁侯にとりたてられた。 ちょうどそのころ、董卓が洛陽に到着し、劉虞を大司馬に昇進させ、公孫サンを奮武将軍・薊侯にとりたてられた。 反董卓連合の義軍が決起すると、董卓は帝を脅迫して長安へ遷都した。 劉虞の子の劉和は侍中として、長安に滞在していた。 天子 帝 は、洛陽へ帰りたいと考え、劉和に董卓のもとから脱走したとみせかけ、実はひそかに武関から出て劉虞のもとへ赴き、軍隊をひきつれて自分を迎えにこいと命じた。 劉和は袁術の領内を通過する途中、彼に天子の意向を説明した。 公孫サンは袁術が二心を持っていることを見抜いていたため、軍隊の派遣を望まなかったが、劉虞は聞かなかった。 公孫サンは、袁術がこのことを聞き知って彼を怨むのを恐れ、彼も自分の従弟の公孫越に千騎をひきいさせ、袁術と手を結ぶ一方、内密に劉和を逮捕して、劉虞から派遣された軍勢を奪いとるよう策動した。 このことから劉虞と公孫サンはますます険悪になった。 袁術は孫堅を陽城に駐屯させて董卓にあたらせていたが、袁紹は周昂に命じてその陣地を奪取させた。 袁術は公孫越と孫堅を派遣して周昂を攻撃したが、公孫越は流れ矢に当たって戦死した。 公孫サンは激怒して、弟が死んだのは袁紹のせいだといい、袁紹に報復しようとした。 袁紹は恐れて、勃海太守の印綬を、公孫サンの従弟の公孫範に与え、友好関係を結ぼうとした。 ところが公孫範はそのまま勃海郡の兵をひきつれ公孫サンに助勢し、黄巾賊を打ち破って軍勢はますます強力となって、界橋まで進軍した。 袁紹は広川に陣地をおき、大将の麹義を先陣として公孫サンと交戦させ、公孫サン配下の厳綱を生け捕りにした。 公孫サンは勃海を敗走し、公孫範とともに薊に帰還した。 州庁のある薊で大きな城の東南に小さな城を造営させたが、劉虞の居所と接近していたため、次第に双方の敵意が深まった。 劉虞は、公孫サンが乱を起こすことを恐れ、ついに軍隊を動かして公孫サンを攻撃した。 しかし劉虞は打ち破られ、居庸に逃走した。 公孫サンは居庸を攻め落とし、劉虞を生け捕りにし、劉虞を捕虜として薊につれ帰った。 おりしも董卓が死んだため、天子は、使者の段訓をつかわして劉虞の所領を増やし、公孫サンは前将軍に昇進し、易侯にとりたてられた。 公孫サンは、劉虞が皇帝を名乗ろうとしていると誣告し、段訓を脅迫して劉虞を斬刑に処した。 かくして公孫サンは慢心し、人の過失は記憶にとどめ、善行は忘れ去って、多くの人々を毒牙にかけた。 劉虞の従事、漁陽郡の鮮于輔と斉周、騎都尉の鮮于銀らは、公孫サンに復讐せんとし、燕国の閻柔を烏丸司馬に推したてた。 閻柔は烏丸族と鮮卑族に誘いかけ、異民族・漢人あわせて数万を手に入れ、公孫サンの配下の鄒丹と交戦し、打ち破って鄒丹を斬り殺した。 袁紹のほうでも麹義と劉虞の子の劉和に軍兵を指揮させ、公孫サンを攻撃させた。 公孫サンはたびたび敗北を重ね、その結果易京に逃げ帰って、守備を固めた。 城壁を高くして土山を築き、物見の楼を築いた。 三百万石の穀物をたくわえ、そこに居住し、これを頼りながら袁紹の疲れを待つつもりだった。 袁紹は何年経っても陥落させることができなかった。 199年、袁紹は全軍をあげて公孫サンの守備する城を包囲した。 公孫サンは息子を使者に立てて黒山賊に救援を依頼させる一方、自分も突撃騎兵隊をひきいて、一気に包囲を突破し、冀州を抑えて袁紹の背後を断ち切ることを考えた。 長史の関靖が公孫サンを諌めて、篭城して袁紹が撤退するのを待つように進言した。 公孫サンはけっきょく出撃を中止した。 公孫サンは、黒山賊の救援が到着したならば、内外から袁紹を攻撃するつもりで、期日を定めて、のろしをあげて知らせよ述べた。 しかし、袁紹の斥候がその手紙を手に入れ、約束の期日にのろしをあげた。 公孫サンは救援隊が来たものと思いこんで、そのまま出撃したが、袁紹は伏兵を設けて、さんざんにこれを打ち破ったため、公孫サンは引き返して守備を固めた。 袁紹は地下道を掘って、その城楼を突きくずし、だんだんと公孫サンへと近づいた。 公孫サンは敗北をまぬがれぬと悟り、その妻子を殺害したのち、自殺した。 享年不明。 評価 『献帝春秋』によると、公孫サンは薊城が崩壊する夢をみて、自分が必ず敗北することを悟った。 そこで密使を派遣して、息子の公孫続に手紙を送った。 袁紹の斥候がそれを手に入れ、陳琳にその手紙を一部書き直させ、送り届けた。 このことが敗北の結果に繋がったのであった。 高い物見の楼を四桁ほど作り、公孫サンはそこで居住しながら、公文書さえも紐を使ってやりとりをして、直接配下と面識することはなかった。 こうしたことから、公孫サンは、袁紹に包囲されて以来、恐怖していたのであった。 裴松之の評では、公孫サンは黄巾賊を打ち破った勢いに乗って、野心を大きくふくらませ、三州に刺史を「置き、袁紹を討ち滅ぼそうと計画した。 敗北を招いたのは当然である」としている。 公孫サンは武勇に優れ白馬に乗っていた。 また降伏させた烏桓族から、騎射のできる兵士を選りすぐって白馬に乗せ「白馬義従」と名づけたので、異民族から「白馬長史」と恐れられた。 当時としては卑しい身分とされていた商人を重用し、交易などで多大な成果を上げ、莫大な利益を得ていた。 逸話 公孫サンは、役人の家の子弟に優秀な人材がいると、決まって故意に困窮に陥れ、凡庸な者を重用した。 公孫サンは「役人の家の子弟や立派な人物を取り立てて、彼らを富貴にしてやったとしても、自分がそのような官職につくのは(名声や実力から見て)当然だと考え、わしがよくしてやっていることに対して感謝しないだろう」と理由を挙げている。 このことが「名士を軽んじて、つまらない身分の人物を重用した」と非難されているが、袁紹との戦いにおいて名士たちがこぞって名門の出である袁紹を支持した事もあって、人間不信に陥ったという側面もあり、公孫サンばかりを責めるべき問題ではなかった。 一説では、公孫サンの生母が下賎の出で、彼が少年時代に有力豪族であった実父に疎まれた家庭環境の複雑な事情があった見方も窺える。

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ざっくりとわかる三国志

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生涯 [ ] 北方の勇将 [ ] 先祖代々(郡太守クラス)であった有力豪族の子として生まれたが、生母の身分が低かったので、あまり厚遇されなかった。 若い頃に、遼西郡の門下書佐に任命された。 聡明で、声が大きく、容姿が優れていたという。 弁舌さわやかで頭の回転も速く、物事の説明も巧みであったという(『典略』)。 の侯氏から惚れ込まれ、侯氏の娘婿となる。 そして侯氏の援助でのの下で経書・兵学を学んだ。 このときの学友にと ()がいる(蜀志「先主伝」など)。 同時にのもとでも学問を習った。 太守の劉氏(名は劉其、または劉基 )が法律に触れて廷吏に連行されたとき、公孫瓚は法に触れる危険を犯してこれに随行し、雑役を代わって務めた。 劉氏がに流罪となりそうになると、公孫瓚はこれに随行するため北虻山の上で先祖を祭り、米と肉を捧げて涙を流し祈った。 人々はこの姿を見て涙を流した。 結局、劉氏は赦免を受けて帰還することができた。 公孫瓚はに推挙されて郎となり、遼東属国長史となった。 数十騎の小勢を率いて城外に出て辺境の砦を巡察したとき、数百騎を率いた族の一団を見かけた。 これを自ら突撃して半数の手勢を失うも撃退した。 鮮卑はこの後、国境を侵すことは稀になったという。 公孫瓚は涿県の令となった。 年間にで反乱が起きた。 2年()に涼州地方で・の反乱があった際、がに任命されて・らを参謀に迎え、 ()・と共に軍勢を率いてと合流し鎮圧に向かった。 しかし張温は、元の太守であったが討伐に従軍したいと希望していることを知りながら、これを聞き容れず公孫瓚を抜擢した。 翌3年()、張温の討伐軍への援軍として、朝廷は幽州の突騎3,000人の出動を命じた。 このとき公孫瓚は行事の割符を与えられ、突騎兵の指揮を任された。 公孫瓚がまで来たところで、この待遇に不満を持った張純は「弥天安定王」と称し同郷の元太守のと(烏桓族、烏丸とも)の大人(地位の高い、いわゆるリーダー、族長)らと共に反乱を起こし、とを荒らしまわった()。 この反乱軍には中央政権に不満を抱く漢民族も加わり、総勢は10万近くに及んだとされる。 公孫瓚は配下を率いて張純らを攻撃し撃破したため、となった。 更に反乱を繰り返す張純に公孫瓚は攻撃を仕掛け、付近でこれを攻め破り(石門合戦)、誘拐・捕虜とされていた人民らを素早く救出し、さらにを越えて反乱軍を追撃した。 だが、深入りしすぎたために今度は逆に反乱軍の包囲を受け、数百日の激闘の末、食糧が尽きて両軍ともに撤退することになった。 張温や公孫瓚らは張純軍を鎮圧するに至らなかった。 局面の打開を図ろうと考えた朝廷は、中平5年()にの劉虞を幽州牧に任命して平定に当たらせた。 劉虞は丘力居に対し、懐柔策を用いて張純との離間を謀った。 元来、劉虞が徳厚く信望を集める人柄であり、烏桓の間でも人望が厚かったため、丘力居は同年早々に劉虞の下へ帰順した。 この劉虞の懐柔による反乱平定の際に、公孫瓚は自身の功績を劉虞に奪われることを恐れ、劉虞と烏桓族の交渉を妨害した。 この反乱の経緯から、公孫瓚と劉虞の対立が始まり、それが後に大きな動乱を招く一因となった。 その後、烏桓族の貪至王が騎馬部族を率いて公孫瓚に降伏したため、自軍へ編入した。 その功で・都亭侯となった。 公孫瓚は遼東属国に駐屯し、異民族と5~6年の間、戦闘を繰り広げた。 劉虞との対立 [ ] 烏桓族の丘力居がこの間、・・幽州・を荒らし回ったが、公孫瓚は対応ができなかった。 朝廷は幽州の経験のあった劉虞を幽州牧に任命してこれに当たらせた。 劉虞は丘力居を説得し、張純の首を差し出させて帰順させようとし、丘力居もこれを受け入れようとした。 公孫瓚はこれを阻止するため丘力居の降参の使者を捕らえて殺害したが、次の使者は間道を通って劉虞に降参の意向を伝えたので、劉虞は諸地に駐屯していた軍を引き上げるとともに、公孫瓚のみを留めて歩兵と騎兵1万を率いさせて右北平に駐屯させた。 張純は妻子を捨てて鮮卑を頼って逃走したが、翌6年()3月に食客の王政によって殺害された。 劉虞はこの功績でに昇進した。 後に董卓の推挙によって公孫瓚は奮武将軍・薊侯に封ぜられた。 異民族に対し恩徳を以た懐柔策を採る劉虞に対し、公孫瓚は「異民族は制御し難いものであるゆえに、彼等が服従しないことをもって討伐すべき。 若し今彼等に恩徳を与えたら、益々漢室を軽視するに違いない。 劉虞の政策は一時の功名は立てても、長期的戦略ではない」と考えていたため、劉虞が鮮卑族に対して与えた恩賞を常に略奪していた。 劉虞は公孫瓚に会見を申込むも、いつも仮病を使って無視されていた(『魏氏春秋』)。 関東において袁紹・らが義兵を挙げると、董卓はに遷都すると同時に劉虞を中央に呼び寄せようとした。 また、袁紹らも劉虞を擁立し皇帝に祭り上げようとし、それが拒絶されると、の事務を担当させ官爵の任命を行わせようとした。 はに帰還するため、劉虞の子のを長安から脱出させて劉虞の軍事協力を仰ごうとした。 劉和は武関を抜け出したが、でに抑留された。 袁術が劉虞の軍勢を手に入れるために、劉和に手紙を書かせて援軍を要請させたところ、劉虞は数千の騎兵を派遣することに決めた。 公孫瓚は袁術の狙いが分かったためこれに反対したが、劉虞の決心が変わらなかったため、自身も袁術の歓心を得るため、従弟の公孫越に数千の騎兵を率いさせ、劉虞の軍に同行させた。 公孫瓚はさらに袁術に密使を送って同盟を結び、劉虞の軍の強奪に加担しようとした。 このことがあって、劉虞とは不和となったという。 このころ、公孫瓚は、反董卓の義兵に加わると称して安平に駐屯していた韓馥を攻撃し、これを破った。 進退に窮した韓馥は袁紹を頼ったという(魏志「袁紹伝」)。 公孫瓚は冀州の住民が袁紹に靡くことに不安を持っていたが、が義勇兵を引き連れて自分の元を訪れると喜んで歓待したという(蜀志「趙雲伝」が引く『趙雲別伝』)。 袁紹との戦い [ ] 2年()、の残党30万がの郡境付近から侵入した。 公孫瓚は2万の兵を率いてこれを迎撃。 東光の南において包囲してくる敵軍を悉く撃破すると、黄巾賊は輜重車を捨てて敗走、清河を渡り逃げようとする黄巾賊に猛烈な追撃をかけ、数万の兵と将を討ち取ると共に大量の捕虜と軍需物資を手に入れた。 袁術とその部将のはを巡り袁紹と対立していた。 あるとき、袁紹の部将の ()が陽城の孫堅の陣地を奪取した報復として、袁術の元に出向いていた公孫越は袁術の指示で孫堅と共に周昂を攻撃するが勝てず、公孫越は戦死してしまう(陽城の戦い)。 公孫瓚はこの知らせを聞き激怒し磐河まで出兵したという。 公孫瓚の勢いに恐れを抱いた袁紹は、その従弟の公孫範に勃海太守の印綬を送り、勃海太守にした上で講和を図った。 しかし、公孫範は勃海郡の郡兵を手に入れると、青州や徐州の黄巾賊の勢力を吸収して公孫瓚の軍勢に加わった。 勢いに乗った公孫瓚は上奏して袁紹の非を鳴らすと共に(『典略』)、・・といった自分の息のかかった人物を青州・冀州・の刺史に任命し、郡や県の長官も勝手に任命した 界橋まで進軍した公孫瓚を袁紹は広川に陣を敷いて迎え撃った。 公孫瓚軍の布陣は、中央に歩兵3万余が方陣を敷き、その左右を騎兵1万余が固めるというものであった。 袁紹軍の布陣は先陣のが楯を構えた兵士八百人と一千張の隊を率い、その後に袁紹自身が率いる数万の歩兵が続いた。 族の(騎兵)戦術を熟知した麴義の奮闘により、公孫瓚軍は部将の厳綱が捕虜になるなど大敗して渤海に敗走した(界橋の戦い )。 その後、 ()らが率いる数万の袁紹軍によって故安城が包囲されるもののこれを守り切り、撤退する袁紹軍を公孫瓚・田楷ら3万の軍勢が追撃し、巨馬水において大いに打ち破った。 公孫瓚は勝ちに乗じてまたも南進し、各郡県を猛烈な勢いで攻め落とし進んでくると、袁紹は数万の軍勢を派遣して2年余りの長期戦と化すが、最後は公孫瓚の敗北という形で決着し、公孫瓚は公孫範と共に薊へ逃げ帰った(『後漢書』「公孫瓚伝」)。 公孫瓚は同時期に袁術の求めに応じて、劉備を高唐に、単経を平原に、を発干に駐屯させたが、すべて袁紹の命令を受けたに打ち破られたという(「武帝紀」)。 公孫瓚は劉備を別部司馬に任命して、劉備に趙雲を随行させて青州方面の田楷の援軍に赴かせている(蜀志「先主伝」、蜀志「趙雲伝」)。 後に劉備は徐州の陶謙の元に援軍に赴いたまま、豫州刺史に推挙されて戻らなかったが、その部下のが帰郷して後に公孫瓚に仕えている(蜀志「先主伝」、魏志「陶謙伝」、魏志「田豫伝」)。 趙雲も兄の喪に服するために公孫瓚の元を離れている(蜀志「趙雲伝」が引く『趙雲別伝』)。 薊には州庁があり、劉虞の城の東南に公孫瓚は小さい城を造営し、そこを拠点とした。 劉虞と公孫瓚との敵意は次第に高まっていったという。 劉虞の殺害 [ ] やがて劉虞は公孫瓚が乱を起こすことを警戒し、異民族らと連携し数万余の大軍を集め公孫瓚を攻撃した。 しかし、劉虞の幕僚であるが侵攻作戦の詳細を公孫瓚に流すと、公孫瓚は精鋭騎兵数100を選りすぐり、戦闘による被害の拡大の防止に気を取られていた劉虞に対して奇襲をかけて散々に打ち破り、劉虞が居庸に逃れた後も執拗に追撃をかけ、遂に劉虞を捕らえ、薊に連れて帰った(魏志「公孫瓚伝」、『後漢書』「劉虞伝」、「公孫瓚伝」)。 この頃、董卓が死去し、長安の朝廷は劉虞に六州を任せようとし使者の段訓を派遣した。 公孫瓚もこのとき前将軍・易侯に封じられたが、公孫瓚はさらに段訓を脅迫して劉虞が皇帝を僭称しようとしたと誣告し、劉虞を一族もろとも処刑し、上書して段訓を代わりの幽州刺史とした。 公孫瓚は驕り高ぶり、他人の過ちを記憶し、善行を忘れたので、多くの者が害された。 劉虞の使者として長安に赴いていたは、劉虞のために哭礼を行ったため公孫瓚に捕らえられたが、後に釈放されている(魏志「田疇伝」)。 劉虞の臣下の多くが殺害されたが(『英雄記』)、劉虞の旧臣の漁陽のらはを烏桓司馬に推して烏桓・鮮卑と手を組み数万の兵力を集め、公孫瓚が任命した漁陽太守のを斬るなど公孫瓚への反撃を開始した。 袁紹は劉虞の子の劉和を擁立し、麴義に命令して鮮于輔らを支援し公孫瓚を攻撃した。 公孫瓚は鮑丘の戦いで敗れると、易京城に撤退して籠城することを余儀なくされた。 易京の戦い [ ] 易京城は10年分の兵糧を蓄え、幾層もの城壁を備える堅城であった。 公孫瓚は「兵法には百の城楼は攻撃しないとあるが、現在自分の城楼は千重にもなっている。 (農事に励んで蓄えた)この穀物を食い尽くしている間に天下の事態の行方を知ることが出来よう」と言ったという。 1年余りの対峙の末、食糧が尽きて撤退しようとする麴義と劉和の軍に公孫瓚は追撃しこれを大破した。 その後も袁紹の軍を防ぎ続けた。 袁紹は公孫瓚に降伏を勧告したが、公孫瓚は返事を書かずに軍備を増強し、側近のに対し自分の力を誇示したという(『漢晋春秋』 )。 公孫瓚やその諸将はそれぞれが高い楼閣を築き、そこに居住したが、公孫瓚は側近を遠ざけ、下女や側室に囲まれて暮らし、公文書も下から吊り上げさせたという(『英雄記』)。 あるとき、公孫瓚の別将で敵軍に包囲された者が居たが、公孫瓚は救援軍を送らなかった。 曰く「1人を救援すれば、後の大将達が救援を当てにして全力で戦わない様になってしまう。 今、救援しない(で見殺しにする)ことで後の大将達は肝に銘じ自ら励む様になる筈だ」とのこと。 そのため、袁紹が北に進軍を開始した時、国境線上に在った別営では、全力で護っても自力では護りきれない上に救援軍も決して遣って来ないことを知っていたから、自軍の指揮官を殺害して自壊するか袁紹軍にあっさり撃破されるかで、袁紹軍は真っ直ぐに易京の門に到達し得たのである(『英雄記』)。 その後、袁紹が大軍を率いて攻めてくると、公孫瓚は最初は自身が突騎兵を率いて出撃し包囲網を突破して城外の・公孫続と合流して袁紹軍を背後を突く計画を練るが、関靖に止められた。 公孫瓚は結局城内から公孫続に密使を送り、内外から呼応する作戦を立てたが、密使が袁紹の斥候に捕らえられて計画が漏れ、出撃するも伏兵により惨敗を喫した。 袁紹は地下道を掘って易京を攻め、公孫瓚らが居住する楼閣を突き崩した(『英雄記』)。 最期に公孫瓚は居城に火を放ち妻や子らを刺し殺し、自らも自害して果てた。 建安4年(199年)3月のことだった。 袁紹は公孫瓚やそれに殉じた関靖らの首を許都に送ったという(『漢晋春秋』)。 小説『』では、反董卓連合の諸侯の1人として登場し、旧知の劉備をいろいろと援助する恩人として描かれている。 とに及んで敗れたり、袁紹配下の武将のや麴義に自慢の白馬義従を破られ逃げ回るなど窮地に陥ることが多いが、そのたびに劉備・関羽・張飛の三兄弟や趙雲に救われる。 曹操と劉備が英雄を論じた宴席の最中、河北の偵察に赴いたが公孫瓚の敗死を知らせてきたため、劉備は公孫瓚の仇を討つという名目で、袁紹の弟の袁術を徐州で待ち受けることを願い出、曹操の許可を得て再び群雄として自立することになる。 人物・逸話 [ ]• 公孫瓚は武勇に優れ白馬に乗っていた。 また公孫瓚は降伏させた烏桓族から、のできる兵士を選りすぐって白馬に乗せ「 白馬義従」と名づけたので、異民族から「 白馬長史」と恐れられた(魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』)。 公孫瓚は役人の家の子弟に優秀な人材がいると、決まって故意に困窮に陥れ、凡庸な者を重用した。 公孫瓚は「役人の家の子弟や立派な人物を取り立てて、彼らを富貴にしてやったとしても、自分がそのような官職につくのは(名声や実力から見て)当然だと考え、わしがよくしてやっていることに対して感謝しないだろう」と理由を挙げている。 特に元・占い師、絹商人、その土地の豪商ら3人と義兄弟の契りを結び(この3人は巨万の富を有した大金持ちであった)、彼等と姻戚関係を結んでいた。 公孫瓚の敗死は迫害した名士層が袁紹に付いたためでもある。 公孫瓚が寵愛する商人たちは至る所で悪事を働いたので、百姓たちに怨まれ、代郡・広陽郡・上谷郡・右北平郡は公孫瓚に反逆してその長吏を殺し、鮮于輔らと合流した(『後漢書』公孫瓚伝)。 鮮于輔と袁紹によって易京に追い込まれた公孫瓚は、常軌を逸脱した憂慮をするようになり、鉄の門を構えて高台に住み、七歳以上の男子は立ち入り禁止にした。 側妾だけが公孫瓚に侍り、文書は全て下から縄で汲み上げて読み、大声を出すよう訓練した女性たちに数百歩離れた距離から報告させ、それで命令を伝えることにした。 賓客も遠ざけ、誰も信頼しようとしなかったので、部下たちは少しずつ離叛していった(『後漢書』公孫瓚伝)。 関連人物 [ ] 親族• (従弟)• (従弟)• 侯氏(妻)• (子)• (義兄弟)• (義兄弟)• (義兄弟) 最期に妻と他の子供も公孫瓚に殺された 所属配下• 参考文献 [ ]• 『』 脚注 [ ]• 『劉寛碑陰』• 『』公孫瓚伝、『』劉寛伝が引くの『』より。 『太平御覧』が引く『英雄記』• 魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』によると、冀州を奪うため袁紹が策謀を巡らした結果だとする。 魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』によると、公孫瓚は青州の黄巾賊を撃破した後、広宗に駐屯し、郡守や県令を更迭したため、冀州の長吏は挙って門を自ら開いたという。 界橋の戦いについては魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』に詳しい。 魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』によると、193年に長安から和睦の使者としてのが派遣され、袁紹と公孫瓚は和解している。 『魏氏春秋』によると、公孫瓚が袁紹に敗れて弱体化していたため、劉虞はすぐに攻撃を加えようとしたが、東曹掾のに反対されたため、魏攸が死ぬまでの1年ほど延期になったという。 『魏氏春秋』によると、劉虞の許で役人となっていた立派な人物を全て殺害したという。 『典略』には次の記述がある。 「公孫瓚は市場で劉虞を晒して(市場における公開処刑は裏切り者や犯罪者に対しなされることである)言った、「お前が本当に天子になるべき人物ならば、天が雨を降らせ助けてくれるはず」と。 時は夏の真っ盛りで終日雨が降らなかったためついに殺害してしまった」• 公孫瓚は「昔、天下の事態は指で指し示しながら平定できる(=自分が全知全能の人格者、すなわち聖人君子である)と思っていた」と述べている。 公孫瓚の将のが袁紹に寝返ったが、当時は公孫瓚に仕えていた田豫が撃退している(魏志「田豫伝」)。 『漢晋春秋』に掲載されている袁紹の手紙によると、これ以前に、袁紹に嫌悪された麴義は殺害され、その残党は公孫瓚の援助を要請したが、公孫瓚は見殺しにしたという。 死の直前、薊の城が崩壊する夢を見て、子の公孫続に手紙を送ったところ、密使が捕らえられたという(『献帝春秋』)• 後漢書「献帝紀」• 同書では、これらのことから「名士を軽んじて、つまらない身分の人物を重用した」と非難されている。

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